レイラインを巡る旅

【元伊勢三社巡りと天橋立を満喫!】レイライン第4回 元伊勢三社(豊受大神社・皇大神社・天岩戸神社)

「レイライン御来光の道」の上に鎮座する元伊勢内宮皇大神社は伊勢神宮より以前に天照大神が祀られていた神社のひとつと言われています。

レイラインについては下記を参考にしてください。

今回参拝に上がる、京都府大江町に鎮座する「皇大神社」はレイライン上に位置している特別な場所なのです。

第4回では元伊勢三社巡りを行い、レイラインのパワースポットを紹介したいと思います。

また、天橋立にまで足を運び、いくつかある元伊勢と呼ばれる神社のうち「真名井神社」も参拝しました。

元伊勢三社巡りについて

元伊勢三社とは

「元伊勢外宮豊受大神社」(もといせげぐうとようけだいじんじゃ)

「元伊勢内宮皇大神社」(もといせないぐうこうたいじんじゃ)

「天岩戸神社」(あまのいわとじんじゃ)

を言います。

元伊勢外宮「豊受大神社」について

元伊勢外宮豊受大神社は、丹後地方へ天下った農業の神様「豊受大神」が祀られた神社で、伊勢神宮外宮の元宮と言われています。

豊受姫命は、雄略天皇の時に丹波国から遷宮して伊勢神宮外宮に祀られたとされる。

当社はその元伊勢伝承地の1つで、豊受大神宮(伊勢神宮外宮)の元宮であるとの伝承から、「元伊勢外宮」とも称される。

市内大江地域には当社の他にも以下の元伊勢伝承の神社があり、総称して「元伊勢三社」と呼ばれている。

ウィキペディアより

豊受大神社の参拝順序

①手水舎→②本殿→③土宮→④多賀宮→⑤御幸神社→⑥月宮→⑦龍燈の杉→⑧風宮

黒木鳥居

黒木鳥居とは、樹皮のついたままの丸太材をもって組み合わされた鳥居で、日本最古の鳥居形式であります。

古来、外宮豊受大神社・内宮皇大神社とともにこの黒木鳥居の形式を現存しております。

燈の杉

節分の深夜、龍神が燈火を献ずると言い伝えられている。樹齢千五百年を超える御神木(黒龍さん)

龍登の桧

龍神が螺旋を描き天へと駆け登るようにそそり立つ御神木(白龍さん)

駐車場横の社務所には「レイライン」「近畿の五芒星」について説明されています。

延暦23年(804年)の『止由気宮儀式帳』に、雄略天皇が天照坐皇太神の夢託を蒙り、御饌都神(みけつかみ)として等由気太神(豊受大神)を丹波国から伊勢に迎えたのが外宮であると記す。

それに基づいて当神社は雄略天皇22年に伊勢へ遷座したその故地であるという(『丹後風土記』)。

あるいは、元鎮座地は比沼麻奈為神社(現京丹後市峰山町久次に鎮座)であるが、雄略天皇22年に伊勢へ遷座する途中で当神社の地にしばらく鎮座し、その跡地に建立したものであるともいう(『加佐郡誌』)。

また、それとは別に、用明天皇の第3皇子である麻呂子親王が当地の鬼を退治するに際して、内宮(現皇大神社)とともに勧請したものであるとの異伝もある(宝暦11年(1761年)の『丹後州宮津府志』))。

近世以前の沿革は不明であるが、江戸時代には明暦2年(1656年)に宮津藩主京極高国が将軍家綱の疱瘡平癒を祈願して社殿を造営し(社蔵棟札)、延宝5年(1677年)に同永井尚長が4石6斗4升2合の社領を寄せ、以後藩家は変わりながらも歴代藩主の社参や代参、寄進等の崇敬を受けたという。

昭和5年(1930年)府社に列し、戦後は神社本庁に参加している。

ウィキペディアより

ご祭神は豊受大神で、衣食住を始め広く産業の守護神とされています。

この地に天照大神がご鎮座されたとき、豊受大神を合わせお祀りされたのが創始と伝えられています。

4年後、天照大神はさらに聖地を求め諸所を経て、現在の伊勢神宮にご鎮座されました。

そして雄略天皇の22年「但波の比沼真名井に坐せる豊受大神を吾がもとに呼び寄せよ」との天照大神のお告げがあり、現在の伊勢外宮の地にお祀りされたと伝えられています。

こうしたことから一般的には元伊勢外宮と呼ばれています。

元伊勢内宮「皇大神社」について

元伊勢内宮皇大神社は、全国的に珍しい黒木の鳥居と茅葺神明造りの社殿を持ち、三重県の伊勢神宮より54年先立って「天照皇大神」がまつられたと言われている由緒ある神社です。

拝殿脇の「龍灯の杉」や東参道の「麻呂子杉」、西参道「日室岳(岩戸山)」など、神秘的な空間に包まれています。

御祭神:天照皇大神(あまてらすすめおおみかみ)

御由緒:人皇第十代崇神天皇三十九年(紀元前五十九年)に「別に大宮地を求めて鎮め奉れ」との皇大神の御教えに従い、永遠にお祀りする聖地を求め、皇女豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)御杖代となり給い、それまで奉斎されていた倭(やまと)の笠縫邑(かさぬいのむら)を出御されたのが、いま(平成二年)を去る二千四十九年の遥かな昔であった。

そして、まず最初にはるばると丹波(のちに分国、当地方は丹後となる)へ御遷幸になり、その由緒により当社が創建されたと伝えられている。

皇大神は四年ののち倭へおかえりになり、諸所(二十余カ所)を経て、五十四年後の人皇第十一代垂仁天皇二十六年に、伊勢の五十鈴川上(いまの伊勢神宮)に永遠に御鎮座になった。

しかし、天照皇大神の御神徳を仰ぎ慕う崇敬者は、ひき続いて当社を伊勢神宮の元宮として「元伊勢(内宮)さん」などと呼び親しみ、いまに至るも庶民の篤い信仰が続いている。

御門神社(元伊勢の厄神さん)

元伊勢の厄神さんは、天岩戸で天照大神をお譲りしたトヨイハマドの神で、わが国の厄除神の本宗です。

八方除の神。

御社殿は、天地根元造、竹の御柱という古式造です。

節分に厄払祭を行い、三鬼打、カワラケ割り神事などを行います。金のなる石は、石で打つと金の音が鳴る奇石です。

「天岩戸神社」について

天岩戸神社は、神々が下った地というにふさわしい岩戸渓谷。

この幽境に本殿と神々が座したという御座石が鎮座しています。

天岩戸神社は大江町の元伊勢三社「皇大神社(内宮)・豊受大神社(外宮)・天岩戸神社」の一つで、伊勢の皇大神宮の元宮として、古くからこの地方の象徴的存在として崇敬されてきました。

天岩戸神社の祭神である櫛岩窓戸命・豊岩窓戸命は門を守る岩石の神であり、岩戸渓石の幽玄の地を天岩戸に比定し、古事記の大神の門番神を配祀していると伝えられています。

社殿背面にある巨石は、神が座して天降った所といわれ、「御座石」と名付けられています。

また、御座石から岩戸渓谷をへだてた下手には「神楽石」と呼ばれる石があります。

さらに約50m下流の岩場には甌穴(河流の浸食作用によって川底の岩盤にあいた穴)があり、この甌穴は神が湯浴みしたところとして「産盥」(うぶだらい)と呼ばれています。

これを汚すと変異を現すといい伝えられており、産盥の水は旱天にも涸れることなく、この水を水面に注げば慈雨を呼ぶとされています。

天岩戸神社の神域は二瀬川の両岸に広がり、左岸は皇大神社に連続し、右岸は標高427.3mの岩戸山となっています。

皇大神社参道の遥拝所からは、この岩戸山東側斜面の美しいピラミッド形の山の姿をながめることができます。

この東側斜面は、天岩戸神社の御神体として古くから保護されてきたことから、ほぼ原生状態に近い植生が残されており、この地域の植生を知る上で極めて学術的価値の高い自然林となっています。

「日室岳(岩戸山)」

日室ヶ岳遙拝所は、「一願さん」と呼ばれ「一つだけ願い事をすれば叶う」という一願成就の信仰が古くから伝えられています。

鎖が据え付けられているので、その鎖をつたって神社まで行きます。

一人ずつしか参拝することができません。

代表で我が家は、私が参拝してきました。

帰りはそのまま車道を下っていくと、駐車場に戻ることができます。

天橋立「傘松公園」と周辺のパワースポット

傘松公園

宮津節(みやずぶし)で唄われた、傘松下(かさまつした)にあり、天橋立の代表的な眺望地で天橋立を股の間からのぞくと天地が逆転したように見える「股のぞき」発祥の地として有名。

ここからの眺めは、天橋立が昇り龍のように見えることから昇龍観と呼ばれている。

登りはケーブルカーを利用し、下りはリフトを利用するのが良いと思います。

下りのリフトは解放感と天橋立が見事に綺麗に見えます。

「神が宿る冠島沓島について」

遙拝所の鳥居の先のかなたに浮かぶ二つの島が冠島沓島(おしまめしま)です。

室町時代の画僧雪舟は「天橋立図(国宝)」に本来ならばこの構図に入らない島を絵の右下に書き込んでいます。

それは、この島が天橋立を含む若狭湾沿岸の住民から篤く崇敬され、神宿る特別な島であることを雪舟が知っていたと考えられています。

冠島・沓島は籠神社ご祭神の彦火明命(ひこほあかりのみこと)と市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)が天降り夫婦となった神聖な島として古代から特別視されてきました。

この島に宿る神様は海を行き交う船をお守りし、人々の暮らしが豊かになるよう見守っておられます。

ご神徳は、縁結び・夫婦円満・家内安全・事業繁栄・技術学問向上・航海安全・貿易交渉・財運など広大で、今も人々の祈りが捧げられています。

「股のぞき」

その昔、国生みの神である伊弉諾(イザナギ/男神)が地上にいる伊弉冉(イザナミ/女神)に会うため、天から地上へと降りるのに使っていた「神の浮き橋」が、天橋立となったという神話が残っています。

股の間から天橋立を見ることを「股のぞき」といいます。

股のぞきで逆さにのぞくその景色は、海と空が逆になり、まさに、天に架かる浮き橋のように見えます。

キャラクター「かさぼう」

天橋立の創造とともに生まれてきた妖精。

天に架かっていた橋が倒れて天橋立ができた時、その一部が落ちる途中で妖精となり、人里離れた山の上(現在の傘松)へ舞い降りた。

以来、ずっと傘松に住み天橋立を見守っている。

「かわらけ投げ」

3枚セット200円

輪っかを通すように「かわらけ」を投げて、見事通ると願い事がかなうといわれています。

残念ながら、我が家で成功した人はいませんでした。

黒カレーは初め甘いのですが、後から辛くなります。意外とスパイスが効いています。

辛いのが苦手な人は普通のカレーをお勧めします。

ロープウェイを下りて、ついつい甘いものに目が行きます。

レンタルサイクルについて

「すぎのや」さんで自転車を借りました。

2時間 1台 400円(延長した場合は追加料金がかかります)

対岸で乗り捨ての場合は追加で1000円かかります。

借りる際に自家用車のカギを預けます。

天橋立内を歩くのは3.5km程度あるため大変です。

自転車を借りて行くことをお勧めします。

智恩寺

ここ智恩寺は「知恵の文殊」とよばれ、またこのところの名から「切戸の文殊」・「九世戸の文殊」とよばれて古くからの信仰の厚いところであった。

寺伝によれば、その開創は千余年の昔、延喜年間という。

世に三文殊と称するのは、ここ智恩寺に加えて、奈良県桜井市の阿部院・京都市左京区金戒光明寺(あるいは、これに代えて、山形県高畠町大聖寺)の三寺の文殊のことである。

国指定の特別名勝「天橋立」というのは、海中に3.6kmにわたって連なる砂の部分だけでなく、それを展望できる成相寺山麓の「傘松」の地、そしてここ智恩寺の境内地をも含めているのである。

寺に伝わる古縁起にも、

そもそも、九世戸あまのはしたてと申すは、本尊は一字文殊、鎮守ははしたての明神と申す。本地はおなじ文殊にておわします 云々

と記し、橋立も一体の信仰の地と考えられてきたのである。

本尊は善財童子・優閻王を従えた文殊騎師像である。

境内には、本堂をはじめ、山門・多宝塔ほか諸堂が並び、寺だけでなく、地方の歴史を語る多数の遺物に接することができる。

宮津市教育委員会より

扇子型のおみくじが印象的でした。

天橋立神社

天橋立神社の所在する場所は天橋立の濃松(あつまつ)と呼ぶ地点に当たる。

近くに真水がわくことから磯清水と呼ばれる井戸があり、磯清水神社ともいわれて来た。

当社の祭神は、明治時代の京都府神社明細帳では伊弉諾命とされ、江戸時代の地誌類では、かつては本殿の左右に祠があり、本殿の祭神を豊受大神、向かって左は大川大明神、右は八大龍王(海神)とする。

当社は智恩寺境内にあったものを天橋立内のこの地に移したという説がある。

確かに江戸時代前期の天橋立図屛風には、当地に社殿風の建物が描かれているとともに智恩寺境内に鳥居が描かれていて社殿が存在する。

一方、南北朝期の「慕帰絵詞」に描かれた天橋立の図や雪舟筆「天橋立図」には、すでに当地に社殿が描かれており、江戸時代中期の「与謝之大絵図」(享保九年1724年)や「丹後国天橋立之図」(享保十一年1726年)には当地に「橋立明神」の文字も記されている。

いずれにしても、天橋立は江戸時代には智恩寺の境内地(寺領)であり、天橋立神社も智恩寺に属する神社であった。

現在の社殿は明治四十年(1907)の再建になる。

当社の参道は社殿から南西方向に進み、阿蘇海に違する地点に石造の鳥居が立つ。

鳥居の石材は花崗岩で形態は明神型、「吉津村誌」によると慶安四年(1651)の造立、願主は智恩寺住持南宗ほかの銘が記されているが、鳥居表面の風化が著しく、現在これを読むことはできない。 

宮津市教育委員会より

丹後一宮元伊勢籠神社

籠神社(このじんじゃ)

神代の昔より奥宮眞名井原に豊受大神をお祀りして来ましたが、その御縁故によって崇神天皇の御代に天照大神が大和国笠縫邑からおうつりになり、之を吉佐宮と申し、豊受大神と共に四年間お祀り致しました。

その後天照大神は垂仁天皇の御代に、又豊受大神は雄略天皇の御代にそれぞれ伊勢におうつりになりました。

それに依って當社は元伊勢と云われております。

両大神がおうつりりの後、天孫彦火明命を主祭神とし、社名を籠宮として朝野の崇敬を集めていきました。

籠神社より

本殿は伊勢神宮と同様の神明造りで、勝男木は十本、千木は内そぎになっています。

心御柱や棟持柱があり、特に高欄上の五色(青、黄、赤、白、黒)の座玉(すえたま)は、伊勢神宮御正殿と当社以外には拝せられないもので、神社建築史上特に貴重なものとされています。

これは山陰道一之大社として、古来の御神徳・社格を象徴するものであります。

神明造りのお社は他にもありますが、規模・様式とも伊勢神宮御正殿の様式に近似しているお社は当社以外にはなく、伊勢神宮と当社が古代から深い繋がりにあったことを物語っています。

籠神社より

浦島太郎伝説が有名です。

奥宮真名井神社

真名井神社は伊勢神宮外宮の元宮であり、当社で祭られていた豊受大神(とようけのおおみかみ)が伊勢神宮外宮へと遷られたという。

古代には吉佐宮(よさのみや)と呼ばれた。

本殿後ろに真名井原祭祀場と呼ばれる磐座(いわくら)があり、豊受大神を主祭神として、伊弉諾大神、伊弉美大神、天照大神などの多くの神々が祭られている。

江戸時代の宮津藩は、丹後ちりめんの生産地であるとともに、流通の拠点として商業・港湾都市として多くの人々が訪れたといわれており、この真名井神社のある傘松下も、民謡「宮津節」にも唄われるほど賑わった。

神代に天つ神が降りられたこの地は眞名井原と云い、その中心となるのがこの磐座である。

東座に地上僅かに現れるのが生命根源の神で、御饌の神でもある豊受大神の磐座である。

西座に鎮まる磐座には大八洲国生みの神である伊射奈岐大神・伊射奈美大神がお鎮まりになる。

また、この処に所生した日神の宮居を日之小宮と云う。

東と西の磐座は、天地、日月、水火、陰陽を現し、相対する神を一対として併祭する原初の神祀りの形が縄文時代より今に続いている。

西の磐座の左面は、船の軸先をしていることから神の乗り物である「天の籠船」とも「天の磐船」とも呼ばれている。 

真名井神社より

神社の鳥居前には「天の眞名井の水」が湧き出ています。

この水は、天村雲命(あめのむらくものみこと)という神様が天上から黄金の鉢に入れ持ち降りたと伝わる霊水。

「真名井」というのは水に付けられる敬称です。

舞鶴赤れんがパーク

赤れんがパーク内の建物は、舞鶴鎮守府の軍需品等の保管倉庫として、明治33 年(1900 年)に着手されて以来、大正10 年(1921 年)までに次々と建築されました。

中でも明治期のものは、明治34 年~ 36 年の3 年余りの短い期間に建てられていますが、有名な日本海海戦が行われたのが明治38 年(1905 年)ですから、まさに当時の日本の国勢が伺えるといえます。

これらは、外国産の鉄骨が使用されるなど、当時の国内の工業の未熟さが感じられる一方で、後の大正期に建てられた倉庫と比べ、外観に意匠的な工夫が凝らされており、急ピッチで進められた工事であるにもかかわらず、丹念に作られているのが興味深いところです。

これに対して、大正期のものは、国産の八幡製鉄造の鉄骨と組み合わせて大空間を作るなど、工法の違いも興味深いところです。

今も残る建物内の構造物や設備と併せてご覧ください。 

舞鶴赤れんがパークより抜粋

舞鶴赤れんがパークの営業はPM5:00までです。

残念ながら今回は中に入ることはできませんでした。

舞鶴で夕食に困ったら、おすすめの店

舞鶴で夕食に困ったらおすすめの店を紹介します。

夕食の時間帯で海鮮料理が食べられる店はPM5:00には閉まる店が多く、また、ネタが無くなり、食べれないケースがあります。

夕飯に海鮮料理を食べようと考えている方はPM5:00前までの入店することをお勧めします。

わたし達は5時過ぎに海鮮丼を食べられる店を探しましたが、なかなか見つかりませんでした。

唯一、PM8時まで営業している店を発見しました。

ハマチのづけ丼で有名な「はんなり食堂」さんです。

実はチキン南蛮定食も頼んで食べたのですが、そのボリュームと味は最高です。

揚げ物もお勧めです。

まとめ

レイライン第4回では元伊勢三社(豊受大神社・皇大神社・天岩戸神社)を巡りました。

さらに、天橋立まで足を運び、元伊勢と呼ばれる神社はたくさんあることを知りました。

神社の歴史は奥が深いことを改めて感じました。

レイラインを巡る旅はまだまだ続きます。

レイライン第1回 【琵琶湖に浮かぶ神秘の島】神の住む島「竹生島」に上陸 

レイライン第2回 【金華山の魅力を満喫!パワースポット紹介】「金華山」周辺を巡る

レイライン第3回 【伊吹山で大自然のパワーを感じよう!】伊吹山の魅力とは?