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【岡山県観光その3】総社市の鬼ノ城・岡山市の最上稲荷を巡る

岡山県観光その2で吉備津神社・吉備津彦神社を参拝しました。

その後、桃太郎伝説を深掘りするために「鬼ノ城」へ向かいます。

第三回目(その3)として、総社市にある鬼ノ城と岡山市の最上稲荷を紹介します。

鬼ノ城では温羅(うら)という鬼神が人々を苦しめていた伝説が残されています。

また、岡山市に戻り、稲荷神社で有名な最上稲荷へ参拝に上がりました。

鬼(温羅)伝説で有名な鬼ノ城

鬼ノ城について

鬼城山(きのじょうざん)

鬼ノ城(きのじょう)

ここ吉備地方には、大和朝廷が派遣した吉備津彦命が人々を苦しめた鬼神(温羅ともよばれる)を退治した伝説が残り、昔話「桃太郎」の原型になったとされています。

伝説では、鬼ノ城は温羅の居城とされ、吉備津神社や吉備津彦神社のある「吉備の中山」に陣を構える吉備津彦命と、弓矢などで戦いました。

標高約400mのこの城は7世紀後半に築かれ、山頂の平坦地を石垣や土を突き固めた土塁が約2.8kmに渡って囲んでいました。

築城当時は、南方面に海が広がっていたと考えられ、遠くに船が行き交う様子を見ることができたと思われます。

近隣には、温羅が生贄を茹でたといわれる鬼の釜など、伝説ゆかりの地が多くあります。

角楼跡】(かうろうあと)について

日本の古代山城では、初めて具体的に確認された特殊な施設です。

中国の城郭でいう「馬面」(ばめん)、朝鮮半島での「雉」(ち)に当たります。

ここは、尾根つづきで攻められやすいため、城壁の死角を補い防御力を高めることを目的として、城壁の一部を長方形(13×4m)に張り出しています。

角楼の下半分は、両側の石垣と同じように石垣積みで、ほぼ4m間隔で一辺50cmの6本の角柱が石垣の間に建っていたことがわかりました。

また城内側には、この施設への昇降のための石段も設けられています。

しかし、この上に建物などがあったかどうかは不明です。

最高所の鬼城山・西門と一体となって、強固な防御ゾーンを形成しています。 

総社市教育委員会より

西門跡】について

鬼ノ城は、四カ所に城門を設けています。

いずれも掘立柱の城門で、通路床面に大きな石を築き、床面と城門前面に2m近い段差を持つ(懸門)ことを特徴としています。

西門は、南門と同規模の大型の城門で間口3間(12.3m)、中央1間を通路とし、2間の奥行をもち、12本の柱で上屋を支えます。

柱は一辺最大60cmの角柱を2mほども埋め込んでいます。

本柱に合わせたくり込み、方位柱穴、軸摺穴、蹴放しが一体的に加工された門礎をもつのは、鬼ノ城のもののみです。

西門は日本最大の古代山城大野城の大宰府口城門(間口8.85m)をしのぐ、壮大堅固な城門です。 

総社市教育委員会より

【西門の復元】について

西門跡は、きわめて良好な状態で残っていました。

12本の柱の位置と太さ、埋め込まれた深さ、各柱間の寸法も正確に知ることができ、また通路床面の石数よ石段、敷石もよく残っていたので、城門の規模と構造を具体的に知ることができました。

そこでこれらの資料をもとに、関連資料を参考にし、戦闘の場としての機能を考慮して三階建ての城門に復元しています。

一階は通路、二階は城壁上の連絡通路、三階は見張りや戦闘の場としての機能をもつものです。

屋根は調査時にも瓦は出土していないので、板葺きにしています。

古代山城の城門の復元例としては、日本で初の事例です。 

総社市教育委員会より

【鬼の釜】について

 鋳型で作られた大釜で、上・中・下三段の横方向と、各段10片の縦方向の鋳造痕が明瞭に認められます。

この釜は、現在新山集落の一画にあります。

鬼ノ城は、『日本書紀』などの歴史書にその名がみられないことから、築造時期が不明な謎の城でしたが、最近の発掘調査成果から、7世紀後半に造られた可能性が高くなっています。

660年、唐・新羅の連合軍により百済が滅んだことから、大和朝廷は援軍を朝鮮半島に派遣します。

しかし、663年、唐・新羅の連合軍に百済・倭軍は白村江で大敗し、日本へ逃げ帰ります。

唐・新羅の連合軍が攻めてくることをおそれ、防御のために北部九州や瀬戸内沿岸に山城が造られますが、鬼ノ城もその一つではないかと考えられます。

また、鬼ノ城には吉備津彦命に退治された百済の王子:温羅(うら)が住んでいたといわれ、温羅伝説の発祥の地でもあります。 

総社市ホームページより

吉備津神社・吉備津彦神社を巡り、桃太郎伝説に触れこの鬼ノ城の存在も関係しているように思われます。

謎の多い鬼ノ城ですが、今後、いろいろな発見があり鬼(温羅)伝説との関係が明らかになるのが楽しみです。

今回は西門のみ訪れましたが、東門、南門、北門も見てみたいものですね。

日本の稲荷神社で有名な最上稲荷

日本三大稲荷について

日本三大稲荷は地域により諸説あり、断定的なことは決まっていません。

京都府の伏見稲荷大社は稲荷神社の総本社です。

それ以外は候補ということになるのです。

最上稲荷について

歴史的にも貴重な稲荷神社で、神仏習合(しんぶつしゅうごう)が許されています。

仏教の流れを継承した稲荷神社として知られています。寺でありながら神社の鳥居・しめ縄を有し、神宮形式を残して今日に至ります。

全国的にも有名で神仏習合(日本の土着の神祇信仰(神道・自然崇拝)と仏教信仰(日本の仏教)が融合し一つの信仰体系として再構成された宗教現象)が許された稲荷神社です。

日本の「神道」インドから伝わる「仏教」のどちらも受け入れて融合し、信仰することを神仏習合という考え方です。

日本人らしい許して受け入れて共存していく考え方である。

しかし、日本古来の神道の考え方を残そうとう動きにより、明治元年に神仏習合の習慣を禁止し、神道と仏教(神と仏)神社と寺院とをはっきり区別させる神仏分離の政策が行われました。

これをきっかけに、仏教を排除しる運動が起き、寺院が破壊されました。

その後、明治5年には神仏分離令を停止しましたが、多くの貴重な仏教施設が被害を受けました。

その流れを汲み現在、基本的には神社と寺院は分離されて共存しています。

神社仏閣を訪れた際に「神仏習合」「神仏分離」を経て、現在の状態になっていると考えてみると、それぞれの神社仏閣の見方が変わるかもしれませんね。

【仁王門】について

お寺の入り口に建つ仁王門には、勇猛・威嚇の姿形をとった二体の金剛力士(仁王尊)さまが安置され、仏法及び伽藍守護のために悪しきものを退ける役目を果たされています。

【①旧本殿について】

1741年再建の最上稲荷最古の木造建造物です。

2004年には岡山市重要文化財に指定され、現在も祈祷所として使用されています。

【②本滝について】

7月第3日曜日に執行される「夏季大祭」の舞台となる行場です。

1974年に現在地に移転しました。

【③縁の末社について】

縁切りと縁結びの祈願が一度に行えます。

【④⑤⑥七十七末社について】

最上さまに仕える諸天王は、旧本殿周辺を中心に3つのゾーンにお祀りされています。

厄除けや安産などの御利益があります。

案内板にそって各ゾーンを順番に一つの末社に一本ずつ、お線香をあげながらお参りしてください。

備中高松城水攻めの戦について】

秀吉が最初に陣を構えた地(一の丸)

天正10年(1582)4月、中国平定のため西進する羽柴秀吉軍は毛利氏手勢の備中七城を攻めるため、備中高松城を見下ろす龍王山に本陣を構え、砦を築きます。

当山一の丸は秀吉が軍議を行った古跡と伝わります。

開戦後、沼地の要害に守られた備中高松城を攻めあぐね本陣で悩む秀吉に、軍師・黒田官兵衛が「水攻め」を献策します。

この献策を取り入れた秀吉は指揮するのに都合の良い石井山に本陣を移し、築堤工事を開始するのです。

また、境内から一の丸への途中にある妙見堂には、備中高松城の守護神と伝わる「妙見さま」がお祀りされています。

八畳岩について】

天平勝宝四年(752)、開山報恩大師が、孝謙天皇の病気平穏のため八畳岩の岩窟に籠り、観世音菩薩普門品の呪いを唱えて祈願されたところ、二十一日目の早晩に最上位経王大菩薩(最上尊)を感得。

そのお姿を自ら刻み祈願を続けると、天皇は快癒されたと伝えられています。

八畳岩は、最上尊が最初にお姿を現された聖域・最上稲荷総本山霊場として、篤い信仰を集めています。

また、龍王山も吉備史跡県立自然公園および保安林に指定されています。

入山登拝に際しては、尊崇の念を持ち清浄護持を心がけて下さい。 

最上稲荷総本山より

まとめ

吉備津神社・吉備津彦神社および鬼ノ城を巡って、桃太郎伝説について岡山県が有力であることがわかりました。

岡山県観光をする際には参考にしてください。

岡山県観光 その1

岡山県観光 その2