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【山口県観光スポットその5】萩市の松陰神社・美祢市の秋吉台を巡る

第五回目(その5)として、萩市の松陰神社・美祢市の秋吉台を紹介します。

山口県観光スポットも五回目となり、いろいろな名所・神社を巡ってきました。

これで、山口県の観光スポットは一旦、終了します。

また、訪れる機会があれば、改修中で見られなかった建物、天候が良くなく素晴らしい景色が見られなかった場所などに再度、行ってみたいものです。

松陰神社

松陰神社について

松陰神社について(松陰神社公式ページより)

松陰神社の御祭神、吉田矩方命(以下松陰先生)が殉節されてから31年後の明治23年(1890)8月、松下村塾出身者などの手により松下村塾の改修が行われました。

このとき松陰先生のご実家、杉家の人々の手で松陰先生の御霊を祀る土蔵造りのほこらが建立されました。

これが松陰神社の前身であります。

明治40年(1907)、松下村塾出身の伊藤博文や野村靖が中心となって、このほこらを公の神社として創建しようと、山口県に請願書が提出されました。

同年10月4日に、当時の社格制度の中で県社の社格をもって創建が許可され、土蔵造りのほこらを松下村塾南隣に移して本殿としました。

萩城の鎮守で、当時廃社となっていた、宮崎八幡宮の拝殿を譲り受け移築するなど、境内の整備が進められました。

昭和11年(1936)、松陰神社改築奉賛会が設立され、翌年には王政復古七十周年記念事業として、神社神域拡張工事が着工されました。

昭和15年(1940)には新社殿が起工され、同17年(1942)には桧皮葺の社殿が竣功しました。

しかし大東亜戦争が激しさを増し、国家総力戦の様相を呈するに至り、遂に御遷座されないまま終戦を迎えました。

戦後、社会情勢が落ち着くと、厚東常吉などが中心となり事業を再開しました。

新社殿屋根を銅版に葺き替えるなどの改修工事をおこない、ついに昭和30年(1955)10月26日に御祭神が新社殿に遷座されました。

これが現在の松陰神社本社であります。

翌昭和31年(1956)には、旧社殿を新社殿北隣に移し、松陰先生の塾生、門下生を御祭神とする末社・松門神社が建立されました。

平成22年(2010)10月、松陰先生御生誕180年記念に10柱を追合祀しました。

更に平成27年(2015)10月、松陰先生の遺書「留魂録」を守り抜き、後世に伝えた功績をもって、沼崎吉五郎命を合祀し、現在その御祭神は53柱であります。

吉田松陰語録について

吉田松陰語録を紹介します。(松陰神社公式ページより)

17才~享年30才の若さでこのような言葉を残していることに驚きます。

語録1(17才)

どんな事をするにも自分がしっかりとした志(どんな人間になりたいかという目標)を持つことが大事だ

語録2(17才)

志があればどんなに目標が遠くとも達成できる

語録3(22才)

兵学(軍事)を学ぶ者は道義を学ぶ経学(けいがく)をしっかりと学ばなければならない

語録4(22才)

心はもともと生き生きしたもので、必ず動き出すきっかけがある。そのきっかけは何かに触発されて生まれ、感動することによって動き始める。旅はそのきっかけを与えてくれる。

語録5(22才)

国が平和なときは本を読み人として正しい道を学び国家の治策を論じ、歴史を振り返ってその得失を議論するが、いざ戦乱になれば従軍して、敵の状態を推し量って交わりを結び、遠大な計画を立てて国に尽くすことが大切である。それが兵学者としての常日頃からの志である。

語録6(22才)

志が強くしっかりとしていれば、自分が目指す学問を必ず成し遂げることができる。

語録7(22才)

日本に生まれた日本人として、この国の風土や歴史の独自性を知らないで、どうして日本人として力強く生きていけるだろうか。

語録8(24才)

「誠」は『中庸』の中ではっきりと言い尽くされている。「誠」を実現するためには、実(実行)、一(専一)、久(継続)の三つが大切である。

語録9(25才)

計画はたびたび食い違ったが、志はますます堅固になった。天が私に与えた試練であろうから、私は少しも嘆いていない。

語録10(25才)

たとえ獄にいても、天下の大義をそこなうことについて、いきどおりの心を忘れてはならない。もしも天下の大義に対するいきどおりの心を忘れないのであれば、一日たりとも学問を怠ってはならない。

語録11(25才)

子どもには、賢い子もおろかな子も、またよい子もそうでない子もいるが、それは父や母の育て方によるところが大きいのである。

語録12(25才)

人はそれぞれの土地によって育てられ、その土地の暮らしはそこに暮らす人々によってくり広げられる。だから、人間社会の暮らしや出来事を論じようと思えば、まずその地域の状態を念入りに見きわめなければいけない。

語録13(26才)

今日からは、親にすがって甘えるような心を振り切り、ひとり立ちした人間になるために、力強く歩んで行きなさい。

語録14(26才)

書物をひもとけば、心にひびく言葉が林のように連なっており、人の心に生き生きと迫ってくるのである。

語録15(26才)

すべての実践は志を立てることから始まる。

語録16(26才)

人の行いは誠実で、自分の心に嘘をつかないことが大切である。うまくごまかしたり、失敗を取りつくろったりすることを恥とするものである。これが公明正大の出発点である。

語録17(26才)

この世の中に生じるできごとに対処するには適切な機会があり、それに応じた務めがある。適切な機会がわからなければ、時局に応じた務めも知ることが出来ない。それぞれの場に応じてなすべき仕事ができないようでは、才徳のすぐれた人とはいえないのである。

語録18(26才)

人間には賢愚の違いはあるが、どんな人間でも一つや二つのすぐれた才能を持っているものである。全力を傾けてひとりひとりの特性を大切に育てていくならば、その人なりのもち味を持った一人前の人間になることができる。今まで多くの人と接してきて、これこそが人を大切にする要術であると確信した。

語録19(26才)

罪は、人が起こした事件によって生じるもので、罪を犯した人が悔い改めることによって消滅する。 従って、ひとつの事件での罪で、その人を否定しつづけるようなことがあってはならない。

語録20(26才)

人の歩むべき道は、気高く美しい。そしてまた、簡単で身近なものである。 しかし人は、道の気高さと美しさだけを見て、とても及びがたいと思い込み、道が簡単で身近な、親しみやすいものであるということを知らないのである。

語録21(26才)

経書(四書五経など)を読むに当たって最も大切なことは、聖人賢人にこびへつらわないことである。 少しでも聖賢にこびへつらう気持ちがあれば、経書を鵜呑みにし、道を自分なりにきわめることができないだけでなく、学んでも益がないばかりか害さえも生じる。

語録22(26才)

学ぶために決してしてはならないことは、やったりやらなかったりすることである。

語録23(26才)

私は、人を信じて失敗することがあっても、決して人を疑って失敗することはないようにしたい。

語録24(26才)

友人同士であれば、お互いにまごころをもって忠告し、善に導きあうことは、当然のことである。

語録25(26才)

師弟のあるべき道を求めるならば、安易に師となるべきではなく、安易に弟子となるべきではない。必ず本当に教えるべきことがあって師となり、本当に学びたいことがあって師につくべきである。

語録26(26才)

初志を名誉や利益で始めた学問は、進めば進むほど、その弊害がはっきり現れる。どんなに広い知識や、多くの言葉で飾ったとしても、この弊害をかくし通すことはできない。そして大事に臨んだ時、自分の判断力を失い、節義を欠 き、権力や利益に屈して、人間としてこの上なく見苦しいことになる。

語録27(26才)

知識は行動の本(もと)である。正しい行動は深い知識や理解によって実現するものである。

語録28(26才)

学問をする上で大切なことは、自分を磨き自分を高めることにある。自分のためにする学問は、しっかりした人間を志(こころざ)す人の学である。人にほめられるためにする学問は、とるに足らない人の学である。

語録29(26才)

「養」の一字を最も深く味わってみるべきである。

語録30(26才)

仁とは人間にそなわった人を思いやる心である。鳥や獣には仁がない。仁がなければ人間ではなく、鳥や獣に近いものになってしまう。従って、仁がそなわった人間としての行動こそが人の道ということができる。

語録31(27才)

天下国家のことを論じるには、当然自分が暮らしている場所と、自分の立場から考え始めるべきである。それが着実な進め方である。

語録32(27才)

命をかけて貫くまごころは、限りなく多くの人々を感動させる。

語録33(27才)

人に浩然の気がなければ、どんなに才能や知識があっても何の役にも立たない。 浩然の気は、大敵を恐れず小敵をあなどらず、安逸に溺れず、断固として励むことができる気力である。それを養うためには、清らかですがすがしく、世俗のわずらわしさにとらわれない気持ちである、平旦の気を養わなければならない。そのためには、一日一日志(こころざし)に向かって、やるべきことを積み重ねることである。

語録34(27才)

体は私で、個別的なものであり、心は公で、普遍的なものでなければならない。 私の肉体を使って、身をかえりみずに公のために役立てる者はりっぱな人であり、公である心を私の欲望のために満足させることに使おうとする者は、徳のないとるに足らない人である。

語録35(27才)

人として最も大切にすべきことは、忠と孝の道である。 国として最も大切にすべきことは、日本の文化の独自性を自覚することである。

語録36(27才)

学問とは、人間はいかにあるべきか、いかに生きるべきかを学ぶことである。これを学ぶ塾の名前に村名をあてた。

語録37(27才)

天地にはすべてのものを生き生きと育てる大きな徳があり、君主と父母にはこの上もない深い恩愛がある。天地の徳に報いるには、まごころをもって尽くすべきであり、君主と父母の深い恩愛には、全力を尽くして報いるべきである。 今日という日は再びめぐってこず、この一生も二度はない。これを成しとげなければ、この身を終えることはできない。

語録38(27才)

たくさんの本を読んで人間としての生き方を学ばない限り、後世に名を残せるような人になることはできない。 自分がやるべきことに努力を惜しむようでは、世の中の役に立つ人になることはできない。

語録39(28才)

1か月でやり遂げることができないならば、二か月かけてやればよい。二か月でできなければ、百日かけてやればよい。できないからといって決して途中で投げ出さないことだ。

語録40(29才)

共に学んで力をつけるには、まずお互いの心が通じあうようにすることが大切である。そうすれば自然に人間として励むべきことと歩むべき道がわかるようになる。

語録41(29才)

本に書かれていることは昔のことで、実践は今の行為である。 今の出来事と本に書かれていることは同じではない。本の通りに実践しても無益である。

語録42(30才)

日ごろよく喋る人は、いざという時には、必ず黙ってしまう。また日ごろさかんに気勢をあげる人は、いざという時には、必ず意気消沈してしまう。 日ごろ大言壮語し、いたずらに気勢をあげる人は頼りにならない。

語録43(30才)

学問をするには、自分の特質をしっかり見きわめ、それを生かし育てることが大切である。それをふまえて、何をどう学ぶかを工夫すべきである。

語録44(30才)

読書は、人間を大きく変える力があるものだ。本の力は偉大である。

語録45(30才)

人間の命は僅か五十年といわれている。人生七十年生きる人は昔からまれである。何か人間としてしっかり生きた証を残さなくては、満足して死ぬことはできない。

語録46(30才)

死はむやみに求めたり避けたりするものではない。人間として恥ずかしくない生き方をすれば、まどわされることなくいつでも死を受け入れることができる。

語録47(30才)

死ぬことによって志が達成できるならば、いつ死んでも良い。 生きていることで大業の見込みがあれば、生きて成しとげれば良い。

語録48(30才)

私(義卿は松陰のあざな)は三十歳であるが、一年に四季があるように人生の四季はすっかり備わっている。実りの時を迎えているが、それらが殻ばかりで実のないもみであるか、よく実ったもみであるか、私にはわからない。しかし、もしも私のまごころに賛同し、尊皇攘夷(そんのうじょうい)の志を受け継ぐ人があるならばその志は滅びることなく、私自身の人生が実りあるものであったと誇らしく思うことができる。同志よ、この事をよく考えてくれ。

松下村塾出身の有名人について

吉田松陰先生

吉田松陰(よしだしょういん)

1830年9月20日-1859年11月21日

江戸時代後期の日本の武士(長州藩士)

思想家、教育者で明治維新の精神的指導者・理論者

松下村塾で明治維新で活躍した志士に大きな影響を与えた人物

久坂玄瑞

久坂玄瑞(くさかげんずい)

1840年11月5日-1864年8月20

幕末の長州藩士で尊王攘夷の中心人物

高杉晋作

高杉晋作(たかすぎしんさく)

1839年9月27日-1867年5月17日

幕末長州藩の尊王攘夷志士として活躍した人物

前原一誠

前原一誠(まえばらいっせい)

長州藩士で倒幕運動の志士として活躍した人物

木戸孝允

木戸孝允(きどたかよし)

1833年8月11日-1877年5月26日

日本の幕末の長州藩士、勤王志士で明治時代初期の政治家

大久保利通、西郷隆盛とともに維新の三傑の一人と数えられる人物

山田顕義

山田顕義(やまだあきよし)

1844年11月18日-1892年11月11日

日本の政治家、陸軍軍人として新政府に貢献するとともに、新日本の設立者として尽力した人物

品川彌二郎

品川彌二郎(しながわやじろう)

1843年11月20日-1900年2月26日

日本の官僚・政治家で松下村塾で吉田松陰から教えを受けた人物。

野村 靖

野村 靖(のむらやすし)

1842年9月10日-1909年1月24日

明治時代の日本の政治家。

山縣有朋

山縣有朋(やまがたありとも)

1838年6月14日-1922年2月1日

日本の政治家(第3代内閣総理大臣)

伊藤博文

伊藤博文(いとうひろふみ)

1841年10月16日-1909年10月26日

明維持時代の日本の政治家(初代、5代、7代、10代内閣総理大臣)

渡辺蒿蔵

渡辺蒿蔵(わたなべこうぞう)

1843年5月2日-1939年9月7日

日本の官僚・造船技術者・実業家

正木退蔵

正木退蔵(まさきたいぞう)

1846年12月12日-1896年4月5日

明治時代の教育者、外交官。

境 二郎

境 二郎(さかいじろう)

1836年8月-1900年2月9日

幕末の長州藩士、明治期の官僚。

飯田吉次郎

飯田吉次郎(俊徳)(いいだとしのり)

1847年8月5日-1923年8月27日

日本の鉄道の父といわれる人物

河北義次郎

河北義次郎(俊弼)(かわきたとしすけ)

1844年4月-1891年3月8日

日本の武士(萩藩士)

秋吉台

秋吉台について(秋吉台公式ページより)

山口県中西部に位置する日本最大規模のカルスト地形である秋吉台。

標高300m前後の緩やかな台地上面は急崖と、麓に広がる平野に囲まれています。

そんな秋吉台のはじまりは南方の遠く温かい海で、サンゴ礁として誕生しました。

そう、もともとは秋吉台は海だったのです。

サンゴ礁は時間が経つと石灰岩という岩になります。

サンゴ礁が出来ては石灰岩になり、それを繰り返します。

それから約3億5千万年という長い年月を経て、海から山へ堆積しながら移動した石灰岩の厚みは、500m~1,000m。 そこに雨水が流れ、長い時間を掛けて石灰岩が溶け、今の地形になりました。

人類の歴史よりも遥かに長い年月をかけて出来上がった秋吉台の美しさは大自然の芸術作品なのです。

まとめ

その5で山口観光を一旦、終了します。

その1~その4までは以下の関連記事で山口観光をする際のヒントにしていただくと幸いです。