熱田神宮での厄払いについて、我が家で体験したことをまとめました。
厄払いについて、熱田神宮の見どころや歴史について、書いています。
また、厄払いだけでなく、初宮詣・七五三詣・安産祈願・年祝(還暦)・商売繁盛・学業合格・心願成就・神恩感謝・家内安全・身体健康・旅行安全・交通安全・災難除け・病気平穏などお願いしたらどうでしょうか?ご利益があることでしょう。
厄払いについて
【男性(数え年)】
25歳・42歳(大厄)・61歳
【女性(数え年)】
19歳・33歳(大厄)・37歳
数え年については下記を参照してください。
令和6年の厄年は以下の生まれの方です。
厄年は「本厄」(ほんやく)の前後1年間の「前厄」(まえやく)「後厄」(あとやく)があり、基本的にはそれぞれ厄払いをしてもらうのが良いと思います。
「厄除け」と「厄払い」の違いはあるのでしょうか?
厄除け:お寺で護摩祈祷をしてもらうことを厄除けと言います。
厄払い:神社でお祓いをしてもらうことを厄払いと言います。
どちらが良いということはなく、厄を落とすことには変わりがありません。
大切なことは厄除け・厄払いをしていただいたことに「感謝する気持ち」が重要であります。
熱田神宮での厄払いの手順は?
第二鳥居をくぐり、手水舎で身を清めます。
手水舎の横には大楠があります。
第三鳥居をくぐり、本宮へ向かいます。
まずは「本宮」で参拝をします。
二礼 二拍手 一礼です。
本宮の右側「神楽殿」で祈祷していただけます。
受付時間は
午前8:30~午後4:00となります。
受付は混雑時期と通常時期で異なりますが、基本的には授与所で受付用紙に記入して、受付をします。
今回は「節分」二月三日の大安という日柄が良く、多くの方が訪れて、大変混雑していました。
テーブルが用意されていて、受付表を記入するスペースが設けられていました。
祈祷してもらいたい内容で用紙が異なります。
今回は厄除けの用紙に記入しました。
太枠内を記入したら、受付へ行きます。
ご祈祷料は6,000円・8,000円・10,000円となります。
受付を済ませたら、神楽殿内で待機します。
ご祈祷が終わり、おさがりをいただきます。
今回は節分ということで、福豆が入っていました。
熱田神宮について
熱田神宮の見どころ
こころの小径の「龍神社」
「御田神社」
「清水社」
「一之御前神社」
もあわせて参拝しましょう。
「龍神社」
「御田神社」
「清水社」
「一之御前神社」
熱田神宮では一通り参拝後、
名物「宮きしめん」を味わいましょう。
くさなぎ広場の目の前にお店があります。
定番の「宮きしめん」800円です。
ひょっと惹かれる「カレーきしめん」980円
初えびすで有名な「上知我麻神社」(かみちかまじんじゃ)
その他、見どころ満載です。
熱田神宮の歴史
境内パネルより熱田神宮の歴史を抜粋します。
神話と歴史でたどる熱田神宮千九百年の歴史
熱田神宮は草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)を祀ってより1900年を迎えました。神剣はもと天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)といい、素戔嗚尊(すさのおのみこと)が出雲国簸の川上において八岐大蛇(やまたのおろち)を退治し、その尾より出現しました。神剣は天照大神に献上された後、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)降臨の際に三種の神器の一つとして授けられ、以降宮中にとどめられました。第十代崇神天皇(すじんてんのう)のとき、鏡と剣は宮中よりお出になり倭笠縫埜邑(やまとかさぬいのむら)奈良県桜井市で祀られ、第十一代垂仁天皇のとき伊勢の神宮にご鎮祭されました。三種の神器とは八咫鏡(やたのかがみ)・草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)・八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)をいい、歴代天皇の皇位の御璽(みしるし)として今日まで受け継がれています。
主神 熱田大神(あつたのおおかみ)
相殿
天照大神(あまてらすおおかみ)
素戔嗚尊(すさのおのみこと)
日本武尊(やまとたけるのみこと)
宮簀姫命(みやすひめのみこと)
建稲種命(たけいなだねのみこと)
御祭神の「熱田大神」とは三種の神器の一つである草薙神剣を御霊代としてよらせられる天照大神のことです。「天照大神」は日本の一番古い御祖先の神で天照と申し上げ、最高の神格を、また日神と讃えて呼ばれるように、始めてこの世に神の道をあらわされ、また人々に慈しみの徳を授けられた神であり、日本国民統合の象徴である天皇の大御祖神であります。相殿に坐す五柱の神は「五座の大神」、「五神さま」とも親しんで呼ばれ、天照大神をはじめ、草薙神剣とゆかりの深い神々として、篤い崇敬をあつめてきました。 「素戔嗚尊」は、天照大神の御弟神にたられ、勇猛のきこえ高く、また、慈愛の徳にもあふれた神であり、出雲国簸の川上(いずものくにひのかわかみ)におもむかれた際に八岐大蛇より得られた神剣、雨叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)を天照大神に献上されました。天照大神は、これを瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の降臨の際に天璽之神宝(あまつみしるしのかんだから)として授けられ、歴代天皇の皇位の神璽(みしるし)として、今日まで受け継がれています。
草薙神剣誕生
第12代景行天皇の皇子日本武尊は東国平定の命を受け、伊勢の神宮に参拝し、倭姫命から天叢雲剣と燧(ひうちいし)を授けられ、尾張国火上の里(名古屋市緑区大高町辺り)の国造乎止与命の館に立ち寄られて征討に向かわれました。駿河国(静岡県)で狩をされていたとき、賊は野に火を放って尊を焼き滅ぼそうとしました。尊は神剣で草を薙ぎ、燧で向かい火を点け、賊を滅ぼされたので、この神剣を草薙神剣と称するようになり、その地は焼津(静岡県焼津)といわれます。
ご鎮座
日本武尊は東国を平定された後、尾張国に帰られ、乎止与命(おとよのみこと)の娘、宮簀姫命(みやすひめのみこと)を妃とされました。尊は伊吹山の賊を平定させよとの天皇の命を受け、草薙神剣を宮簀姫命のもとに留め置かれて出発、伊吹山中で病に倒れ、都へ帰る途中伊勢国能褒野(のぼの)(亀山市)で亡くなられました。宮簀姫命は託された草薙神剣を尾張氏一族の祭場としていた熱田の地にお祀りしました。これが熱田神宮のはじまりです。113年(景行天皇43年)のことです。
弥生時代から古墳時代のころ
熱田神宮は、名古屋城辺りから南へ伸びる標高8~15メートルの熱田台地の南端に鎮座します。台地上には稲作が始まった弥生時代の宮廷式土器が出土した高蔵遺跡や熱田神宮境内遺跡などがあります。豪族の墓である古墳も存在し、日本武尊が白い鳥となって舞い降りたという白鳥古墳や妃の宮簀姫命の墓といわれる断夫山古墳もあります。当神宮ではこの二つの古墳を御陵として祀り、毎年5月8日には御陵墓祭を行っています。
飛鳥時代のころ
668年(天智天皇7年)、外国の賊徒が草薙神剣を境外に持ちだそうとした事件があって以後、神剣は一時宮中に留め置かれましたが、686年(天武天皇朱鳥元年)、熱田に戻られました。現在も往時を偲び、5月4日の夜、神剣が戻られたことを喜び「おほほほ・・・」と笑う酔笑人神事(えようどしんじ)が行われます。翌5日は、神與(しんよ)が西門(鎮皇門跡)へ渡御され、都に向かって皇室や国家の平安をお祈りする神與渡御神事が行われています。
平安時代前期
845年(承和12年)第54代仁明天皇の御前で、113歳の尾張浜主が自作の「和風長寿楽」を舞い、「翁とてわびやはおらむ草も木も栄ゆるときに出て舞ひてむ」と和歌を詠み、お褒めにあずかりました。浜主は、熱田神宮に縁の伶人(楽人)と伝えられています。現在も5月1日、神楽殿前に舞台を組み、平安時代さながらに舞楽神事が催さています。また平安頃の舞楽面も多数現存しています。
平安時代後期 院政期のころ
1179年(治承3年)、太政大臣藤原師長(もろなが)は平清盛により都を追われ尾張国井戸田荘(名古屋市瑞穂区)に来ました。琵琶の名手であった師長は、帰郷を願って熱田神宮の神前で秘曲の「流泉」などを演奏したところ、大神は感動され社殿が揺れ動き、人々も感銘したといわれています。そののち、師長は罪を許され都に帰るとき、愛器白菊の琵琶を当神宮に奉納し、現在その写しの琵琶が残されています。
武家政権のころ
武士が台頭するころ、当神宮の大宮司藤原季範(すえのり)の娘(由良御前)が源氏の棟梁、源義朝(よしとも)に嫁ぎました。その子どもが征夷大将軍となった源頼朝(よりとも)です。頼朝は鎌倉の地に武家政権の幕府を開いた後、外祖父が大宮司を務める当神宮を篤く崇敬し、鎌倉の鶴岡八幡宮に「熱田社」を勧請(かんじょう)しました。また、牛若丸(源義経)が奥州藤原氏のもとに向かう時、大宮司を烏帽子親として元服したと伝えています。
南北朝のころ
熱田大宮司は、第96代後醍醐天皇の武臣として仕え、熱田大神の神威を背景にその勢力を伸ばしていました。さらに、知多半島南端に羽豆崎城を構えて、関東と近畿を結ぶ海路の要路を押さえ、後醍醐天皇の皇子宗良親王の尾張から伊勢への通行をも手助けしています。一方、足利尊氏は先祖が熱田大宮司家につながるという縁と、神剣を祀る社から、1335年(建武2年)権宮司田島氏に戦勝祈願を依頼しています。
蓬莱伝説
東の海に蓬莱島が在り、不老不死の仙薬があると中国では伝えています。熱田神宮はその蓬莱であると、鎌倉時代後期の「渓嵐拾葉集」という書物などに書かれています。1412年(応永19年)に奉納された鏡や蒔絵箱には蓬莱文様が散見できるのは、こうした伝承によるものでしょう。また、熱田大神が中国に渡って楊貴妃となった話はあまりにも有名で歌人の間で歌にもされていますが、これも蓬莱伝説の中から生まれた物語です。
室町時代 足利将軍
1419年(応永26年)や1458年(長禄2年)の遷宮は、将軍足利家からの援助をうけて行われ、第8代足利義政は表着や檜扇などの装束類や神宝を奉納しました。これらは今に伝えられ、重要文化財の指定を受けています。この頃架けられた石橋が二十五丁橋で名古屋最古の石橋といい、1529年(享禄2年)の「熱田神宮古絵図」にも描かれています。板石が25枚並んでいるところからそう呼ばれています。
安土桃山期 織田信長
1560年(永禄3年)織田信長は桶狭間の戦いに臨み、まず熱田神宮に参拝し戦勝を祈願し、見事今川義元を倒し勝利しました。この戦いには大宮司千秋季忠も参戦しました。 境内の信長塀はそのお礼に寄進されたものです。戦国期の混乱で、社殿の荒廃が進んだものの、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の三英傑により、当神宮の基盤が確立されました。特に信長は社殿の荒廃に心を痛め、度々造営を命じています。
安土桃山期 豊臣秀吉
豊臣秀吉は、1590年(天正18年)に熱田門前町の発展のために、押売狼藉・喧嘩公論の停止、伝馬役の停止、売買物の諸役免除などの禁制を出しました。1591年(天正19年)秀吉の母大政所が参拝し、社殿の造営を命じ、大宮司家へも領地を与えています。1598年(慶長3年)秀吉が病気になったときには平癒祈願に神職が伏見城まで出向いています。
江戸時代 徳川家康
徳川家康は幼少のころ、熱田町の加藤図書助宅に織田方の人質として3年ほど幽閉されていた事から、熱田には特別な思いがありました。1598年(慶長3年)米五百石を寄進し、1600年(慶長5年)には本宮・別宮八剣宮などの社殿の修復造営を命じています。鎮皇門は加藤清正による造営です。更に1608年(慶長13年)の尾張国の検地では、熱田町は神領地として年貢や諸役などが免除されました。
江戸時代 徳川義直(尾張藩主)
初代藩主徳川義直は神道に関心をもち、「神祇宝典」を著しました。熱田神宮にも篤い崇敬の誠を捧げ、1636年(寛永13年)には長さ2.6メートルもある神宝「鵄尾琴」(とびのおのこと)を奉納しています。1625年(寛永2年)藩主として初めて威儀を正して参拝し、以後も数度参拝しています。また、神職に宛てては、神社を護ることを第一と命じた条文を出すなど、手厚く保護しています。
江戸時代中期 貞享の大改修
1600年(慶長5年)の造営が行われたのち、社殿の改修は行われませんでした。大宮司以下神職は、1638年(寛永15年)以後毎年幕府に改修の誓願をねばり強く続けた結果、ようやく1686年(貞享3年)、第5代将軍徳川綱吉の命により80年ぶりの改修造営をすることができ境内は一新しました。松尾芭蕉は、改修となった当神宮を参詣し、「磨ぎ直す鏡も清し雪の花」と詠みました(「笈の小文」)。これ以後、尾張藩主の命によって定期的に改修造営が行われました。
宮の宿(みやのしゅく)
東海道五十三次「宮の宿」から次の桑名宿へは、船で海上七里を渡海するものでした。宿場名の「宮」は当神宮が鎮座していることからの名前です。大名の宿である本陣は2軒、一般の旅人の宿である旅籠は大小248軒、1699年(元禄12年)では人口が一万余人を数える街道一の賑わいでありました。広重の絵は5月5日の祭礼に、熱田の町の人々が裸馬を仕立てて参拝する(馬の塔)さまを描いたものです。
明治維新のころ
1866年(慶応2年)の遷宮では、第121代孝明天皇は「格別の御社柄」と仰せられ、弁官(行事役)が遣わされて斎行いたしました。1868年(明治元年)6月、第122代明治天皇は王政復古の奉告に、伊勢の神宮と当神宮にだけ勅使(天皇のお遣い)を御差遣になりました。天皇は同年9月27日、当神宮ご参拝の後、八丁畷(現在の瑞穂区神穂通)の神田で農民が新穀を収穫する様子をご覧になり、農は我が国の基であることをお示しになられました。
明治期 ご改造
1871年(明治4年)明治政府から官幣大社に指定され、その後1893年(明治26年)、尾張造の社殿から神明造の社殿に改造されました。これは時の宮司角田忠行が三種の神器を奉斎するにふさわしい当神宮のあり方を考えて、伊勢の神宮と同様な社殿とすることを政府に建言した結果、国費により、尾張造から神明造に社殿が改められたものであり、勅使参向のもと同年4月遷座が厳粛に斎行されました。
大正期 勅祭社となり、大正天皇がご参拝
1917年(大正6年)例祭に勅使が参向される勅祭社となりました。これは1893年(明治26年)のご改造ののちも三種の神器の神器奉斎の由緒にふさわしいご待遇の働きかけが行われた結果です。されに国費と御内帑金(ごないどきん)(天皇よりのご寄付)を賜り、境内の拡張整備工事が始まり、1927年(昭和2年)に竣工しました。1906年(明治39年)皇太子時代の第123代大正天皇はご参拝の折に、樟をお手植えになりました。このことが契機となり、1911年(明治44年)11月18日に「寄 樟 祝」と題して第一回の献詠会が盛大に催され、現在も9月第四日曜日に恒例祭として斎行しています。
大正期 日本武尊 千八百年祭
日本武尊は、当神宮の創祀に深く関わる古代の英雄で、古代日本の統一に多大なる功績を残されました。1914年(大正3年)は日本武尊が113年(景行天皇43年)能褒野(亀山市)で亡くなられ、白い鳥となって天高く昇ったときから1800年に当たり、当神宮では「日本武尊千八百年祭」を執り行いました。それから100年後の2013年(平成25年)に「御鎮座千九百年祭」を賑々しく奉仕致しました。
戦後の復興
戦争が激しくなった1945年(昭和20年)、空襲に遭い境内の神楽殿や鎮皇門等の建造物の大半が焼失し、御神体はご無事でしたが、本殿も被災したために、やむなく解体されました。戦後、多くの人々から社殿の復興が望まれ、1949年(昭和24年)に造営会が結成され、全国から多くの浄財が寄せられました。1955年(昭和30年)11月11日に皇大神宮(内宮)の御正殿を譲り受け当神宮の本殿として遷座を斎行いたしました。
平成の遷座
本殿は先の造営である1955年(昭和30年)から50年が経ち修復の時期に来ていました。これに併せ神楽殿や授与所等の造営、そして境内整備をも含む大規模な事業に着手しました。本宮は、耐震の備えをも施して万全とし、2009年(平成21年)10月10日に遷座を斎行し、神楽殿や授与所も時代に即した設備を伴って竣工しました。当神宮は、草薙神剣ををお祀りするにふさわしいお社として一新いたしました。
そして、令和の新時代へ
平成時代から令和の新時代へ移り、南神池周辺の改修整備工事を、御大典奉祝記念事業として開始しました。南神池全体を、参拝者の憩いとくつろぎの空間「くさなぎ広場」として整備し、国宝・重要文化財の刀剣を多く所蔵する当神宮ならではの「剣の宝庫 草薙館」を開館しました。年間七百万人を超える参拝者でにぎわう当神宮。今後も先人たちが築き上げた伝統を後世に継承するように、たゆまぬ努力を続けてまいります。
まとめ
熱田神宮での厄払いについてと熱田神宮の見どころや歴史をまとめました。
熱田神宮でのご祈祷の際には参考にして下さい。