「御来光の道」として春分・秋分の日に日本を代表するパワースポットが一直線上に並びます。
太平洋側から日が登り、日本海側に日が沈むまでの700km以上におよぶライン上に、日本が誇る「富士山」頂上を起点としてパワースポットが並びます。
太陽は世界中でその強力なパワーを神格化しています。
日本においては、太陽の神様として「天照大神」が崇敬されてきました。
今回、強力なパワーを秘めている富士山周辺の神社・仏閣、大自然を巡り、「良い気」を全身に浴びてきました。
いろいろな角度から見る富士山の魅力を感じ、その偉大なパワーを満喫することが出来ます。
富士山頂上を起点として、西は身延山・七面山、人穴浅間神社、富士山本宮浅間大社(山頂への参拝が困難なため)、東口本宮富士浅間神社(須走浅間神社)を巡ります。
さらに、本栖湖、北口本宮富士浅間神社、新倉富士浅間神社、富士御室浅間神社本宮、大石公園まで足を運びました。
いろいろな角度から、富士山を見ることが出来ました。
その迫力に圧倒され、「スゴイ!」という言葉が何度も出てしまいました。
レイラインについては下記を参考にしてください。
レイライン上に位置するパワースポット
まずは身延山山頂から、七面山、富士山を拝みます。
身延山久遠寺・七面山
身延山久遠寺の入り口にある総門は二十八世日奠上人の代、寛文五年(1665)三河国苅谷城主三浦志摩守明敬公の母寿応院殿の丹精によって建立されました。
門柱に刻まれた丸に三の字は三浦家の家紋といいます。三十六世日潮上人のとき改修され、その折に日潮上人筆の開会関の大扁額が掲げられました。
開会関とは、妙法五字の尊い教えですべての人々の心を開き、平等に救い、仏と同じ寂光土に入ることが出来る関門である、という意味です。
総門を通り車で登ること、2~3分で三門まで行くことが出来ます。
車で身延山久遠寺へ行く場合、三門横の無料駐車場が便利です。
また、直接、ロープウェイの乗り場へ行く場合は乗り場の近くに有料駐車場があります。
三門から本堂へは菩提梯(287段の石段)・男坂・女坂があります。
古くは寛永十九年(1642)、二十六世日暹上人のとき、伏見宮邦房親王の第八王子尊賀院日廷上人が普請奉行として建築されてが、慶応元年(1865)に焼失し、明治四十年(1907)七十八世日良上人の代に全国寺院檀信徒の協力を得て再建されました。
関東大三門のひとつに数えられています。
仁王尊は横浜市金沢区六浦の上行寺より六浦平次朗入道妙法禅門が背負ってここまで運び寄進したという伝説があります。
六浦平次郎は相州荒尾城主播磨守の後身で、中山法華経寺日祐上人の弟子となり日荷と名を改めたといいます。
次郎作の十六羅漢像がまつられています。
身延山の扁額は七十九世日慈上人筆です。
しゃもじには以下の記述があります。
「仁王様」は身延山の聖域に邪心のあるものを入れぬよう、また三門を潜ると邪心が除かれ清々しい心でお参りが出来るようにと大変厳しいお姿でお立ちになっております。
「力しゃもじ」は仁王様の広大無辺の力で、「悪の心」「邪心な心」を召しとる(飯取る)ということで「力しゃもじ」をお分けしております。
赤い橋が見える方が「女坂」、もう一方が「男坂」です。
私たちは菩提梯(287の石段)で本堂を目指します。
石段の高さ、段数、かなりハードなので、注意してください。
若い人でも、一気に登りきることは出来ないくらいキツイ階段です。
菩提梯とは二十六世日暹上人の寛永九年(1632)に、佐渡の住人仁蔵の発願によって、完成したものです。
高さ104mで、三門と本堂を一文字に結ぶ287段の石段は、南無妙法蓮華経になぞらえて7区画に分かれています。
菩提梯とは覚りにいたる梯のことで、この石段を登り切れば、涅槃の本堂に至ることが出来ることから、覚りの悦びが生ずることを意味しています。
登りきり、振り返るとその高さに驚きます。
本堂
明治八年(1875)の大火以来、本堂の再建は身延山の悲願でした。
機熟し、日蓮聖人第七百遠忌の主要事業として、八十八世日慈上人代に着手、八十九世日康上人代を経て、九十世日勇上人によって昭和六十年五月入仏落慶式が行われました。
総面積九百七十坪、開口十七間半、奥行二十八間。
内外装は木造仕上げ、外陣の天井画「墨龍」は加山又造画伯の力作、昭和六十一年度(1986)の建築業協会賞を受賞した総本山の根本殿堂にふさわしい規模と格調を備えました。
久遠寺墨龍仏縁
昭和六十年、間口17間半、奥行28間、総面積970坪の身延山久遠寺大本堂が完成。
その大本堂外陣の天井に、計八十一面の鳥の子和紙、二万三千五百の金箔が張られ、墨だけで加山又造の「墨龍」は描かれている。
法華経の根本道場たる日蓮宗本山身延山久遠寺を守護する「墨龍」は、11メートル四方の巨大な天井画である。
仏縁
身延山と美術は縁が深い。
室町時代中期の狩野正信に始まる絵師集団・狩野派、そして同じ頃、本阿弥家の初祖妙本に始まる本阿弥家の人々等が、法華経信者であった。
この時代、京都には名僧・久遠成院日親上人がおり、度重なる迫害にも屈せず、京都に本法寺を建て、ここを本拠とし布教し、これがやがて庶民の信仰として弘まり「町衆」とよばれ、「京都に日蓮宗繁昌して、毎月二ヶ寺三ヶ寺宛、寺院出来し、京中大方題目の巷」と言われるほどになり、狩野派や本阿弥家等の信仰を生み出す基となった。
中でも狩野派は日蓮宗の信仰を基盤とした職業画人であったから、従来の伝統を重んじながらも「町衆」といわれるような庶民の力が大きくなり、全てにわたって定着していったことを背景として、様々なことに縛られず日本人の感覚が自由に発揮できる立場にあったが故にこそ、日本絵画史上最大の画派となり、後世に偉大な作品を残したと言えるのかもしれない。
加山又造画伯は、京都「町衆」以来の華麗で、装飾的で、内に信仰心を抱きながらも、気取りのない庶民的な美術を受け継ぎ、それを武器として更に新しい表現の世界を果敢に切り開こうとする「伝統と革新」の画家であった。
それが故に、久遠寺の大本堂外陣に、加山又造の墨龍が天翔るのは、ある意味必然である、仏縁と言える。
龍神法雨
仏道において、八部衆に列せられる「龍」。
龍は元来、凶暴で人間に害を与えるとされていたが、仏縁により悔いを改め、仏教に帰依。
仏法を護る護法神になったとされる。
古来中国においても、龍は淵に住み、雲を呼び、雨を降らせ、荒れる海を静める力を持つとされ、水を司る神として信仰されたことから、仏教の法の雨を降らせる存在へと昇華し、また火災から護る性格も内含されていった。
然るに、龍に雨雲は付きもので、この雲には、墨を重ねて奥行きに深みを与えるべく、噴霧器を使用。
いつの時代も新しい技法に挑戦し、新しい世界を拓いていく。画家の信念がここに表れている。
面、波
加山は、描いた絵がはめ込まれる位置、高さ、そして拝観する人々との関係まで考えた上で、いくつかの仕掛けをほどこしている。
その一つが、中央部に描かれた墨龍面相の左目。
その目が、全図のちょうど中心、百二十平米の外陣の中心を示す標識となっている。
波の中から現れる龍は、今にも天井から飛び出さんばかりの迫力。
陰影を出すため、噴霧器を使って、波の飛沫を表現している。
そして面は、陰影のある画面の中で最も明るく描かれ、外から差し込む自然光をも味方に付け、前面に飛び出すが如く生命力を放っている。
八方睨み
墨龍の眼は、あらゆる角度から向き合ってもこちらの心を見つめられているように感じる「八方睨み」である。
これは、すべての人を平等に限り無く見つめている状態を表しており、すべての人間が平等に成仏できる法華経の教えを感じることができる。
また、本堂内の全ての人に常に法雨が澍いでくださっている。
時には「恐ろしく睨んでいる」様にも見え、時には「優しく微笑みかけている」様にも見える。
その時の自分自身の心内を表しているのか?
しかし、不思議と可愛らしく見える龍である。
五本爪握られていない宝珠
龍が掲げている右前肢。
そこには肉厚で鋭い爪が、墨の濃淡によって鋭い輝きを放っている。
古来中国において、指が五本の「五本爪の龍」は皇帝にのみ許された象徴であり、日本で描かれた例は少ない。
しかし、そうした慣習を踏まえながらも、それを超えて、久遠寺大本堂に時代の今の龍を描くという加山の信念が、五本爪の龍を天翔させた。
また、この五本の爪に描かれることの多い宝珠が、この墨龍には握られていない。
諸説ある中、この宝珠を持たないのは、一つは、龍女がお釈迦さまに宝珠を献上して悟りを開き、仏法の守護神として弘く教えを説いたという法華経の教えに則っており、つまりは、この身延の黒龍は悟りを開いた龍の証である。
そして、仏種(すなわち仏様の心)を誰もが生まれながらにして持っていることが説かれた法華経こそが宝珠であり、身延山で合掌する人々の心の中には、すでに宝珠が備わっていることを気づかせてくれているものである。
五重塔
この身延山五重塔は九十一世日光上人の発願により全国皆様の御丹誠のもと、九十二世日総上人のとき百三十年ぶりに復元され、平成二十一年五月十三日より五日間に亘り落慶式が奉行された。
身延山に五重塔が創建されたのは元和五年(1619)加賀藩主前田利常公の母・寿福院の寄進によるもので、御大工鈴木近江守長次の作であった。
しかし元和の塔は文政十二年(1829)に焼失し、後に再建されたが再び明治八年(1875)の全山を巻き込む大火により焼失した。
現在の五重塔は元和五年、初代五重塔の復元であり、明治以降諸堂復興の総仕上げで、悲願ともいえる大事業であった。
この五重塔は、宮大工の伝統技術と最新工法の融合により蘇ったものである。
御真骨堂
拝殿の奥に望む土蔵造り八角堂が日蓮聖人の御舎利を奉安する御真骨堂です、尾張の信徒の丹精によって明治十四年(1881)七十四世日鑑上人の代に建立されました。
御真骨堂の中央には精緻を極め善美を尽くした五重塔があり、その中央の水晶の宝龕中に日蓮聖人の御真骨が納められています。
堂内の宝龕華台は美濃国の寺院、五重塔と天蓋は長崎の講中の寄進されたところであり、金銀をちりばめた四天王は後藤裕乗の彫心遺骨の作りです。
仏殿・納牌堂
昭和六年(1931)に竣工したこのお堂は、日蓮聖人第六百五十遠忌を記念して八十一世日布上人のとき全国寺院檀信徒の丹精にてできたものです。
全国信徒の御納骨・御納牌・追善法要が毎日ここでおこなわれています。
樹齢約400年の枝垂桜
開花三月下旬
身延山ロープウェイへ向かいます。
身延山ロープウェイ公式ホームページより、「WEBクーポン券」をA4用紙に印刷して提出すると、100円の割引が得られます。
私たちはクーポン券を打ち出し忘れて行ったのですが、人も少なかったこともあり、スマホ画面で割引が出来ました。
歩いて登ると2時間以上かかるところ、ロープウェイでは7分で頂上まで行くことが出来ます。
富士山が一望できる東側展望台にはデッキが設けてあり、気持ちの良い時間を過ごすことが出来ます。
身延山奥之院 思親閣
このお山は身延の嶺と称し、蓮華の峰ともよばれる、この地こそ身延山の頂であり日蓮大聖人御在山の間、弟子達と節々として登山せられ、はるか遠く故郷房州の方を拝され御両親を慕い、恩師に思いをはせられた霊地であるります。
思親閣とは親を思う御堂ということでありますが、日蓮大聖人は九か年に亘る身延山での御生活の間、常にこの峰にまで登られて、両親をはじめ師匠の追善供養を祈られたところから名付けられたものであります。
七面山は、山梨県南巨摩郡身延町に位置する標高1982,4mの霊山で、法華経の聖地である。
日蓮宗の総本山である身延山久遠寺の奥の院にあたる信仰の山で、山頂に近い平坦地にある敬慎院には身延山を守護する鎮守神として七面大明神がまつられています。
七面山山頂・敬慎院から拝する御来光は、はるか東の房総半島の上総一宮の太平洋上から昇って、富士山山頂を照らし身延の峡谷や峰々に、光をあたえ七面山上を通り、出雲の国に向かうといわれています。
聖地が一直線に並ぶ現象はレイラインといい、貴重なパワースポットとして崇められています。
また、春分の日と秋分の日には富士山頂から太陽が昇る”ダイヤモンド富士”を参拝するため、毎年たくさんの人々が訪れています。
七面山は歩いて登る以外に方法がなく、登山経験のない私たちは身延山から七面山に向かって拝みました。
ロープウェイは、登りも下りも20分間隔で運行されています。
売店では、富士山の砂で作った富士山の可愛らしい置物を買って帰りました。
人穴浅間神社
人穴浅間神社について
かつては「光侎寺(大日堂)」があったとされるが、神仏分離令を受けて廃され、「人穴浅間神社」が置かれた。
傍らにある溶岩洞穴「人穴」において、富士講の開祖長谷川角行が修行を行ったと伝わる。人穴浅間神社は、太平洋戦争の激化に伴い、昭和17年(1942)に少年戦車兵学校が上井出に開口すると、この地区の山野が演習地となったため上井出の芝山に移転した。
昭和29年に元の位置に別の建物として復元されたが、芝山に移転された社殿は現在も芝山浅間神社として残されている。
現在の人穴浅間神社は、平成13年に建立されたものである。
祭神は木花咲耶姫・源家康朝臣(徳川家康)・藤原角行(長谷川角行)である。
溶岩洞穴「人穴」には、ガイドを予約して入ることが出来るそうです。
予約は下記リンクより確認してください。
人穴と富士講
16~17世紀に人穴や白糸の滝などで修行した長谷川角行は、江戸を中心に広がった「富士講」と呼ばれる富士山信仰の基礎をつくったと伝えられている。
富士講の資料によると、角行は天文十年(1541)に長崎で生まれ、永禄元年(1558)に初めて人穴を訪れたという。
そこで角行は4寸5分四方の角材の上につま先立ち、一千日に及ぶ修行を行い、仙元大日神より角行東覚の名を授かったとされる。
その後、各地で大行をなし、正保三年(1646)に人穴で大往生を遂げたという。
やがて角行の教えは、江戸時代中期以降、江戸を中心に広まり、数多くの富士講が組織され、角行がなくなったとする人穴は富士講の浄土とされた。
このため、人穴は角行の修行の地・入滅の地や修行のために訪れる人々も多く、先建の供養碑や記念碑等の碑塔を建立しることも多く行われた。
また、人穴には光侎寺(大日堂)があったとされるが、この寺は修行者の世話をする施設だと考えられており、赤池家が管理していたとされる。
赤池家は、溶岩洞穴「人穴」やその周辺を管理し、参詣者の案内や修行者の世話、お礼・御朱印の授与、碑塔建立の世話等を行っていた。
溶岩洞穴「人穴」
溶岩洞穴「人穴」は、富士山の旧期側火山溶岩流(約11000年前~約8000年前)により形成された犬涼み山溶岩流上に位置している。
犬涼み山は標高1210mの側火山(寄生火山)で、この溶岩流は大量に西方の朝霧高原へ流下している。
鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」(あづまかがみ)には、鎌倉幕府二代将軍源頼家の命によって、洞内を探検した武士が霊的な体験をした話が載せられている。
この中で「人穴」は、「浅間大菩薩の御在所」とあり、当時、この穴が富士山信仰に関係する場所であったことがうかがえる。
また、江戸時代中期以降に隆盛をみた富士講の開祖長谷川角行がここで修行したことから、富士講の人たちに霊地(浄土)として信仰された。
洞穴内には、総延長83.3mで南西の端が進入口となり、洞穴中央部でくの字型に曲がっている。
入口から約20mに祠が、30mの屈曲部手前中央には直径約5mの溶岩柱がある。
最奥部で狭小となり、そのまま閉塞していると考えられてる。
富士山本宮浅間大社
富士山を神体山として祀る神社であり、境内は以下の二宮からなります。
本宮・・・富士宮市街地
奥宮・・・富士山頂上
浅間大社は全国の浅間神社の総本社であり、富士信仰の中心地として知られる。
境内は広大で、本宮社地で約17,000m2になるほか、富士山の8合目以上の約385万m2も社地として所有している。
本宮の本殿は徳川家康による造営で、「浅間造」という独特の神社建築様式であり、国の重要文化財に指定されている。
また、本宮境内には富士山の湧水が湧き出す「湧玉池」があり、国の特別天然記念物に指定されている。
祭神を木花之佐久夜毘売命とし、祭神にまつわる桜を神木として境内には約500本もの桜樹が奉納されている。
また、古来より富士氏が大宮司を務め、「日本三大宮司」の1つに数えられた。
古くより朝廷・武家からの崇敬が深かったほか、社地は大宮・村山口登山道の起点に位置することもあり、古くから登山を行う修験者からの崇敬も受けていた。
ウィキペディアより
今回、富士山頂上の奥宮への参拝が困難であるため、富士山本宮浅間大社での参拝を行います。
本殿は徳川家康公の寄進によるもので浅間造り(二重楼閣造り)と称し国の重要文化財に指定されている。
本殿手前右側には武田信玄公お手植えの枝垂桜があります。
楼門手前の鉾立石とは、明治以前の春秋の大祭に、神霊を宿した鉾が本宮と山宮の間を往復したが、その神幸の途中の休憩時に神鉾を安置した石。
現存するのは、ここ本宮楼門前の一基と山宮浅間神社参道の二基となります。
火山弾
これは富士山噴火の時に、地中の溶礫が火熱のために落下した際に、酸化して冷却したものです。
この様に形が整って大きなものは、珍しいといわれています。
南極の石
この石は、南極奥地より氷河に乗り幾億年もの歳月を経て流出し、地吹雪により風化したもので、第七次南極観測船ふじの乗組員により採取されました。
富士浅間大神の、御神霊を奉斎して、昭和基地に赴いた砕氷船、ふじ、の乗組員赤池稔氏の奉納であります。
湧玉池
この池は霊峰富士の雪解けの水が溶岩の間から湧き出るもので水温は摂氏十三度、湧水量は一秒間に2.4キロリットル、年中殆ど増減がありません。
昔から富士道者はこの池で身を清めて六根清浄を唱えながら登山するならわしになっております。
お宮横丁で昼食
富士山本宮浅間大社前にあります。
富士宮焼きそばのお店は、3店舗くらいあります。
その内の富士宮やきそば専門店 「すぎ本」
創業昭和二十三年老舗の富士宮やきそばを食しました。
シンプルですが、イカの風味が良く、満足しました。
「イカと豚肉入り焼きそば 並」
「とろーり焼きチーズ焼きそば 並」
「イカり焼きそば 並」と「イカと桜エビ入り焼きそば 並」
お宮横丁では富士山の湧き水で食事ができます。
富士山に降った雪や雨が長い年月を経て湧き出た天然水です。
水温は、一年を通じて約十三度で、飲用の水質検査を行っていますが、原水の為お持ち帰りの際は、煮沸してからご使用ください。
東口本宮富士浅間神社
御由緒
平安時代初頭、桓武天皇の時代・延暦二十一(802)年富士山東脚が噴火した。
当時の朝廷は逃げ惑う住人のため、富士山東面に位置するこの須走の地い斎場を設け、鎮火祭を斎行した。
すると、同年四月初申の日に噴火が収まった。
この御神威を畏み、奉賽するべく、平成天皇の時代大同二(807)年に鎮火祭の跡地・現在の御社殿の地に神様をお祀りしたことが、当社の創建と伝えられる。
江戸時代・宝永の噴火では、神社と街は約三メートルの降灰の被害をを受けるが、富士登山と交通の要衝として幕府より手厚い支援の下、街を埋めた灰の上に街を復興させ、神社は村民により灰が除去されて現在に至る。
明治時代、逸早く自動車化進んだ地域であり、登山安全と相まって、交通安全・道中守護としても一層の崇敬を集める。
平成十九年(2007)年には、御鎮座千二百年を迎え記念式年大祭を斎行。
平成二十五(2013)年には、富士山の世界文化遺産登録に際し、その構成資産の一つとして登録された。
富士山信仰
霊峰・富士山は、古来より浅間大神が鎮座する神体山として、全国の登拝・修験者が最も崇敬する山の一つである。
富士山本宮浅間大社(富士宮市)を総本宮とし、全国には約千三百社の浅間神社が鎮座する。
当社は、天正年間開道と伝えられる。
かつての東口・いまの須走口登山道の起点として、東口本宮と敬称される。
須走口は、富士山頂より真東に位置し、おおよそどの位置からでも御来光(日の出)を拝することが出来るのが特徴であり、須走の街からは朝陽で染まった縁起物の赤富士が見られる。
鎌倉往還
鎌倉往還は、かつては鎌倉道などと呼ばれ、幕府所在地の鎌倉から放射状に複数のルートがありました。
由来については、現在のところ、源頼朝が鎌倉に幕府を開くに至る源平の合戦にその起源をおくといわれています。
鎌倉時代に鎌倉幕府の御家人や坂東の武者達が、有事の際に「いざ鎌倉」と鎌倉殿の元に馳せ参じた道であり、当時の御家人らが鎌倉と自領との往還に利用した道でもあります。
当時から街道が担ってきた役割は軍用道路としての実質的な目的の他、政治や経済流通としての交易にも用いられ、地方に残る様々な遺物から文化や宗教等も急速に伝えられことが明らかにされています。
かつての鎌倉往還は、廃道となっていたり、拡幅されたり付け替えられたものも見受けられ、また枝道も多くあることから正確なルートについては諸説あります。
しかし、未舗装のまま現在に至り、当地のようにかつての雰囲気を偲ばせる箇所も一部に残存しています。
当地の鎌倉往還は、まっすぐに籠坂峠・御坂峠を越え、甲斐源氏の国の中心、石和(いさわ)へ向かうルートをとっています。
このように小山町須走は、古くから富士北麓地域と駿東部を結ぶ交通の要衝として利用されていたことがわかります。
奉雷の杉
推定樹齢三五〇年で、境内の樹木で最も長寿の杉の一つ。
平成三十年夏、この木が落雷を引き受けてくれた御蔭で、神社や地域に大きな被害を与えなかった。
落雷のよる枯れが少ないことから、雷という圧倒的な偉力に抗ったのではなく、雷を奉り遵った=柔和に協和したと考えられ、奉雷の杉と呼ばれる。
以来、その偉大さ・懐の深さの肖ろうと足を運ばれる方が多く見えられる。
楼門
二階建ての随神門を特に楼門と呼び上層の周囲に高欄付きの縁を回らしている。
御門の神様である櫛岩窓神(向かって右)・豊岩窓神(向かって左)が随神として配神されいている。
貞享二(1685)年、小田原城主の稲葉丹後守が鳥居と共に楼門を修繕したと伝えられる。
しかし、宝永の大噴火(1707年)により社殿と共に大破し、幕府へ再建の願いが出されている。
現在の楼門は、明和四(1767)年随神が寄進された当時のものと考えられる。
境内末社
日枝神社・山神社・琴平神社・霧島神社・高尾神社・社護神社
由緒
古い時代より当社境内地には、日枝神社を始め多くの神社がそれぞれ祀られてきた。
そして何度か神社の合併がなされ、昭和33年、現在のように6社がここに合併された。
その中で、社護神社は最も古く本社の鬼門除けとされていた。
また、氏子崇敬者の信仰篤く「おしゃごつぁん」と称えられ、親しまれていた。
毎年仲秋の名月の夜、神官によって祭典が執り行われている。
長壽亀石
古来、長壽の象徴とされる亀の形をした石。
この亀石は当社氏子の家屋工事中に土中より発見されたもの。
亀の甲羅によく似た形をしており、大変吉兆物であるとし、当社に奉納された。
以来、長壽亀石と名付けられ、健康長寿に肖ろうとの敬拝を受けている。
富士山周辺で巡りたいパワースポット
河口湖周辺の北側エリアについて
白糸の滝
お鬢水
お鬢水は、鬢撫水とも呼ばれ、馬蹄状に広がる白糸の滝崖面のほぼ中央部で芝川本流が落下する部分の上部にあります。
湧水が溶岩の窪地にたたえられ池となったもので、その水は白糸の滝の一部として流れ落ちています。
鎌倉時代、源頼朝が「富士の巻狩」のおり、ここに立ちより鏡のような水面に鬢のほつれを映し、撫でつけたと言い伝えられています。
富士の巻狩
鎌倉幕府を開いた源頼朝は、1193年(建久4年)5月8日から6月7日にかけて、多くの御家人(将軍の家来)を集めて富士山の裾野で大規模な巻狩を行いました。
「富士の巻狩」といわれるこの巻狩は、初めは現在の御殿場市から裾野市にかけての辺りで行い、5月15日から6月7日まで現在の上井出・原・内野・人穴・猪之頭を中心とする富士宮市北部一帯で行われたと伝えられています。
巻狩は単に狩猟を楽しむだけのものではなく、富士の裾野に諸国の御家人が集まり、将軍頼朝の前で勢子(鳥獣を追い出す人)の追い立てた獲物を馬に乗って弓で射る武術の訓練を目的とした催しで、将軍頼朝を中心とした東国武士の力を京都の公家の人達に認めさせるため大軍事演習ともいえるものだったようです。
富士宮市教育委員会より
白糸ノ滝
白糸ノ滝は、富士山の湧水を水源とする芝川から流れ落ちる滝と高さ約20メートル、幅150メートルの湾曲した絶壁から湧き出る水が並行して流れ落ちており、昭和11年(1936)国の名勝及び天然記念物に指定されています。
この滝の全国的にも珍しい特徴は、富士山にしみ込んだ雨や雪解け水が地下の溶岩層の隙間を巡り、その末端部の断崖で湧出するというものです。
本展望場からの眺望は、秀麗な富士山を優美な滝越しに見る唯一のビューポイントであり、一年を通して素晴らしいものですが、新緑の季節や紅葉の時期は、その美しさが一層映えるものとなっています。
食行身禄の碑
江戸時代中期以降、江戸を中心に隆盛した富士講の開祖長谷川角行は、白糸ノ滝で修行を行ったとされます。
そのため白糸の滝は富士講の信仰を集め、信者の参詣や修行などが行われました。
このことは世界遺産「富士山」の重要な要素とされ、白糸ノ滝はその構成資産となっています。
食行身禄の碑は、天保三年(1832)、富士講の中興の祖食行身禄の百回忌供養として造立されたものです。
幕末、白糸ノ滝で修行を行った富士講の先達(指導者)の記録には、白糸ノ滝で垢離(こり)をとる先達のそばに食行身禄の碑と思われる石碑が描かれています。
カモが二羽、仲良くしているのが見れます。
音止の滝
音止の滝は、「音無の滝」とも呼ばれ、白糸ノ滝と台地を隔てた東側に位置します。
主瀑は落差約25メートルを流れ落ちる芝川の本流であり、轟音を響かせています。
音止の滝には、次のような曽我兄弟の仇討ちにまつわる伝承があります。
曽我兄弟が滝のそばで仇討ちの相談をしていたところ、滝の音が凄まじいので「心ない滝だ」と呟くと、滝の音がぴたりと止まり、相談が終わるとまた元のように轟音を響かせました。
無事に相談が出来たので、兄弟は見事仇討ちを果たすことができました。
そこで、この滝は「音止の滝」と呼ばれるようになりました。
周辺には、兄弟の敵である工藤祐経の墓(供養碑)や兄弟が身を潜めた「隠れ岩」など、曽我兄弟の仇討ちにまつわる話も伝わっています。
富士の巻狩りと白糸ノ滝
1193(建久4)年、鎌倉幕府将軍となった源頼朝は、東国武士の武力を朝廷に見せつけるため、御家人を集めて富士山麓で大規模な狩りを催しました。
いわゆる「富士の巻狩り」です。
白糸ノ滝周辺は巻狩りとその時に起こった「曽我兄弟の仇討ち事件」の舞台となった場所と伝わり、「音止の滝」をはじめ様々な伝承地が残っています。
北口本宮富士浅間神社
御祭神
木花開耶姫命 天孫彦火瓊瓊杵尊 大山衹神
御由緒
人皇第十二代景行天皇の四十年、皇子の日本武尊が景行天皇の命を受けて東国を平定した帰り、神社の南西に位置する大塚丘で富士山を遥拝したことに始まる。
その後鳥居と祠を建立し、富士山の山霊「浅間大神」と日本武尊を祀る。
延暦七年(788)に甲斐守紀豊庭朝臣が現在の境内地へ新たに社殿を造営して浅間大神を祀り、大塚丘には日本武尊を祀った。
その後遂次造営が行われ、現在の本殿は元和元年(1615)に鳥居土佐守成次が造営。元文三年(1739)には村上講社村上光清師により境内各所改修工事がなされる。
神楽殿
元文二年(1737)頃に村上光清を中心とした富士講中による境内建物の大修理において建立されたものである。
この神楽殿は、富士山御師(おし)により太々神楽が奉納された舞台であり、現在でも神社の祭礼には地元の神楽講により富士山御師より継承した太々神楽が奉納されている。
柱間寸法は約6.2mと大きく、虹梁形飛貫と頭貫で固め中備に十二支の彫刻を施した蟇股(かえるまた)を据える。
富士山信仰と深い関連をもつ重要な建物である。
太々神楽
この神楽は戦国時代には奉納されていたことが古文書等に記されている。
江戸時代以降、現在の形態に確立したと伝えられ、採物舞を含む出雲流の神楽は「富士太々神楽」と称されている。
富士山の神霊に五穀豊穣を願い、感謝する舞といわれている。
舞の形態は素面四舞と有面八舞からなり、面の男舞は大地を踏み鎮めるために動き廻って舞う「反閇」(へんばい)と途中から早いテンポに変わる「散らし」の舞から構成されてきたが、明治時代中期以降、地元の崇敬者で組織する神楽講に受け継がれている。
角行の立行石
この立行石は、慶長十五年(1610)の冬、富士講の開祖角行東覚(当時六十九歳)が吉田の地を訪れ、富士山霊を遥拝し、酷寒の中を裸身にて、石上に爪立ちして三十日の荒行をした。
全身より血を噴き、里人の勧めで行を止めたと伝えられている。
角行は本名を藤原武邦といい天文十年(1541)正月十五日、九州長崎で生まれた。戦国の世にあって天下泰平・国土安穏・衆生済度の大願を成就すべく難航苦業の道に入った。
永禄二年、十八歳で故郷を出立ち岩手県盤井群の「脱骨の窟」で三十七日の行をなし、のち神告により富士の「人穴」に入り、四寸五分角(約十四センチ四方)の材木に一千日爪立ちするという捨て身の荒行をおえ、解脱し角行と称した。
元和六年(1620)角行七十九歳の時、江戸に「つきたおし」という奇病がはやり、三日で千人死んだとも言われたが「風先侎」により病を癒し庶民を救い、その名を高めた。
正保三年(1646)六月三日、百六歳にて大往生したが、生涯における修業で主なものは不眠の大業一万八千八百日、立行三千日、断食三百日、造字三百六十字、富士登頂百二十八回に及んだといわれ、富士講の開祖となった。
冨士山大鳥居
本鳥居はその名のとおり富士山の鳥居とされ、北口本宮冨士浅間神社に社殿が建つ以前よりあったとされる。
「甲斐国社記・寺記」によれば、日本武尊が当地で富士山を遥拝した時に大鳥居を建てたとある。
大鳥居は古来神社の象徴とされ、木造として日本最大級を誇る。
扁額には「三國第一山」とあり、後陽成天皇の弟である良恕法親王の筆により、谷村藩主秋元泰朝に寛永十三年(1636)奉納されたものである。
「三國第一山」とは日本と中国(唐土)とインド(天竺)の三國で、世界一高く麗しい山とされた富士山をさす。
富士山の鳥居ということもあり六十年を以て式年と定められ、建て替えあるいは修理がなされてきた。
北口本宮浅間神社の大スギ
本樹は樹齢千年くらいと言い伝えられている。
根張りが著しく発達し漏斗を伏せたような樹形は、ご神木の名に恥じない荘厳さがあり、本殿を見守るかのようである。
「冨士太郎杉」と呼ばれ、広く市民に親しまれている。
南側付近の損傷部分は、昭和三十四年(1959)八月の七号台風により被害を受けたものである。
山梨県を代表するスギの巨樹として、山梨県の天然記念物の第一号の指定されている。
北口本宮浅間神社のヒノキ
この木はヒノキが根元で一本になり、また地上約十二メートルで再び合着していることから「冨士夫婦桧」と呼ばれ、広く市民に親しまれている。
根張りが著しく発達し漏斗を伏せたような形になっており、枝は上部で四方によく伸びて大変見事である。
合着木ではあるが、県下で最大の巨樹であり、市内の代表的な巨樹である。
新倉富士浅間神社
神社から398段の階段を登り、新倉山浅間公園へ行くと、有名な「富士山・五重塔・桜」が見事な絶景スポットがあります。
今回、時間の関係と体力的に公園まで行くことは断念しました。
境内広場からも見事な富士山を見ることが出来ます。
外国人にはとても有名な絶景スポットとなっているため、海外の方で賑わっています。
富士御室浅間神社
祭神
木花開耶姫命
由緒
河口湖畔に鎮座し、1300年以上の歴史を有する富士山最古の神社である。
699年に藤原義忠が霊山富士二合目に奉斎し、以後もムスビの神(子授け、安産、良縁、夫婦円満、事業繁栄など)として、武田家、小山田家、徳川家からあつい信仰や手厚い庇護を受けてきた。
広い境内には、富士山を背にする本宮(国指定重要文化財)と、河口湖を背にする里宮(町指定有形文化財)が建てられており、本宮は昭和49年に永久保存のため、富士山二合目から現在に遷祀したものである。
百福の龍宝珠
上昇、隆盛を意味する龍で宝珠を象ることで、国家・地域の繁栄を祈願したと言われております。
また宝珠は災難を除き、濁水を清くする徳があるとされており、祈ることで全ての福が授かると言われております。
神使の撫牛
先ず自身の身体の悪い所を撫でてから、牛の同じ所を撫でる事で病を治す病気平穏の牛とも言われています。
また、より願いを込めて撫でる事により、撫でた所に御利益があると言われ、学業成就は頭や角を、子授け安産は腹の部分を撫でると良いとされております。
大石公園
どこを見まわしても外国人ばかりで、日本ではないみたいでした。
お花畑が整備されていて、「富士山と花」のコラボレーションが美しい場所です。
まとめ
レイラインを巡る旅も第5回目となります。
今回、いろいろな角度から見る富士山の魅力を感じ、その偉大なパワーを満喫しました。
富士山頂上を起点として、西は身延山・七面山、人穴浅間神社、富士山本宮浅間大社、東口本宮富士浅間神社を巡り、さらに、本栖湖、北口本宮富士浅間神社、新倉富士浅間神社、富士御室浅間神社本宮、大石公園まで足を運びました。
富士山の圧倒的なパワーを感じるレイラインの旅となりました。
第1回~第4回までは下記を参考にしてください。
まだまだ、レイラインを巡る旅は続きます。