
「未来心の丘」と検索すると、白い大理石で造られた不思議な場所が現れます。
日本とは思えない、ヨーロッパの美術館のような世界観が広がっています。
「未来心の丘」は、広島県尾道市の生口島にある、【耕三寺】というお寺の一部エリアなのです。


無料駐車場について
駐車場は耕三寺博物館・平山邦夫美術館の無料駐車場を利用しましょう。
周辺に有料駐車場が多々ありますが、無料駐車場をお勧めします。

耕三寺入口
耕三寺について
耕三寺 は、広島県尾道市(生口島)に所在する浄土真宗本願寺派の仏教寺院。
山号は潮声山(潮聲山)。
1936年(昭和11年)から伽藍の建立が始められた新しい寺院で、日本各地の古建築を模して建てられた堂塔が建ち並び、「西の日光」「母の寺」とも呼ばれる。
このうち、山門・本堂をはじめ15の建造物が国の登録有形文化財として登録されている。
また、仏像、書画、茶道具などの美術品・文化財を多数所蔵し、寺全体が1953年3月14日より博物館法による登録博物館となっている。
無檀家寺院でもある。
ウィキペディアより

大人 1,400円
大学生・高校生 1,000円(学生証必要)
中・小学生以下 無料
年中無休
午前9時~午後5時
耕三寺の開山は、大正・昭和期に大阪で活躍した実業家の金本耕三のちの耕三寺耕三。
1927年(昭和2年)故郷瀬戸田に住む母のために邸宅「潮聲閣」を建て始めた(耕三寺内に現存)。
母が1934年(昭和9年)に没すると、翌1935年(昭和10年)、金本は母の菩提を弔うため出家して僧侶となり名を福松から「耕三」に改め、同年から母への感謝の意を込めて、潮聲閣周辺にて耕三寺の建立を開始した。
金本はかねてより、瀬戸田の地に誇りうる文化財のないことを残念に思っており、境内を日本各地の著名な歴史的建造物を模した堂宇で埋める構想を立てた。
以来、30余年をかけて、日光東照宮陽明門を模した孝養門、平等院鳳凰堂を模した本堂などをはじめとした伽藍が完成した。
なお金本は1956年(昭和31年)以降、自らを「耕三寺耕三」と名乗るようになった。
陽明門を模した孝養門から「西の日光」と呼ばれるようになり、瀬戸内海の観光地の一つとなった。
平成期に入ってからは、建築物の特殊性が評価され、15棟が登録有形文化財として登録された。
ウィキペディアより

耕三寺入口の向かいにあるお店には、黄色い郵便ポストが目立ちます。










【五重塔】
当山の、五重塔は昭和28年3月和上がご母堂の納骨塔として建立を発願しました。
飛島時代の配置様式に従って金堂正面に約4メートルの基礎を掘り、和上自ら棟梁となって設計指導にあたり昭和30年12月、ついに完成し「大慈母塔」と名付けられました。
その様式と規模は、大和室生寺の五重塔に従ったのですが塔の建築には、図面製作のため、室生に滞在して、実測を行うなど種々の苦心がはらわれました。
この塔の構造上の特徴は和上の考案によって、心柱を1トン半の鋼鉄の円筒をもって造り、また室生の檜皮葺に対して垂木と共に各層を鋼板葺としています。


【法宝蔵(ほうほうぞう)】
本蔵は向かいの僧宝蔵と同型で飛鳥時代に創建され江戸時代に再建された大阪四天王寺の金堂の平面図とその様式を基礎とし耕三寺独自の発想を加え建立されました。
最大の特徴は四天王寺様式の大棟から拭きおろし途中で区切りをつける「しころぶき」の屋根です。
しかし当蔵では「しび」のかわりに「ししぐち」を乗せ雅児棟を造っています。
また平行垂木や連子窓は和様を扇垂木や桟唐戸などは禅宗様を妻飾、高欄、支輪や木割は江戸様式を取り入れて建てられています。
蔵内は、耕三寺博物館展示館(3号館)として使用しています。

【僧宝蔵(そうほうぞう)】
本蔵は向かいの法宝蔵と同型で飛鳥時代に創建され江戸時代に再建された大阪四天王寺の金堂の平面図とその様式を基礎とし耕三寺独自の発想を加え建立されました。
最大の特徴は四天王寺様式の大棟から拭きおろし途中で区切りをつける「しころぶき」の屋根です。
しかし当蔵では「しび」のかわりに「ししぐち」を乗せ雅児棟を造っています。
また平行垂木や連子窓は和様を扇垂木や桟唐戸などは禅宗様を妻飾、高欄、支輪や木割は江戸様式を取り入れて建てられています。
蔵内は、耕三寺博物館展示館(4号館)として使用しています。

【孝養門(こうようもん)】
この門は、耕三寺参拝の人々が極彩色の堂塔を初見して、あたかも「日光のようだ」と言われたのを和上が心に留め、昭和28年9月、日光陽明門の原寸復元を発願され約10年をかけ建立されたものです。
その実測図面は、民間に無く文部省に一組だけあるということが分かり同省に申請して入手しました。
また、了承を得て工匠を再三日光に派遣しようやく昭和29年1月造営に着手することが出来ました。
木組み、寸法などは、陽明門と同じですが、彫刻、金具、彩色などは、和上の考案で仏教様式を取り入れ様相を異にしており大正、昭和を代表する彫刻家の作品で飾られています。
和上は、この門を建立するにあたり「母が子を養育するように年月をかけ手間暇をも惜しまず慈しみ建設をしようと思う」と話されていました。

【本堂】
本堂は、宇治平等院の鳳凰堂を手本として建立されました。
入母屋、切妻、宝形などの屋根形はもちろん肘木、垂木の大面取や格天井および支輪などの彩色にいたるまで仏教建築の最高峰である藤原時代の手法によっていますが和上の考案により中堂の外陣柱を丸柱にして彫刻を施し翼廊はお名号や絵像を安置するため一層と二層を同じ高さにして板戸を取り付けています。
御本尊は、鎌倉時代の方便法身阿弥陀如来立像です。
当山の位置は、昔、山科中納言卿の荘園の跡で大日輪を背光として、真北に面し眼下に、瀬戸内海を望んだ景勝の地です。
本堂前面の礼拝壇は、白色大理石を用い腰鏡は、禽獣草花の浮彫をしており水中には、本願寺より頂いた睡蓮を咲かせ西方極楽世界の七宝地を現しています。



【千佛洞地獄峡(せんぶつどうじごくきょう】
この洞窟は、浄土教の祖、源信和上の著された往生要集を視覚で体感してもらおうと造られたものです。
横洞350メートル、最深部15メートルの洞内は、富士山の溶岩と浅間山の焼石で岩組され、往生要集の十界の各場面の彫刻絵と四国今治市の石彫家、馬越三雄・正八親子作の石仏約千体を以て、地獄と極楽を、顕わしています。
地獄・極楽が日常生活から遊離した今日、あらためて見つめなおして下さい。

地獄の世界を洞窟の中で表現しています。







未来心の丘とは

未来心の丘 巍々園
この丘は、世羅郡世羅町出身の彫刻家、杭谷一東氏が1989年より12年の歳月をかけ、イタリア産白大理石を素材に制作された、大規模環境造形作品です。
氏は1969年にイタリアに渡り、ローマの国立アカデミアで巨匠ペリクレ・ファッツィーニ氏に師事し、バチカン宮殿の謁見 の間「キリストの復活」の制作にも参加されました。
1990年にはローマ教皇ヨハネ・パウロ2世に謁見。2005年にマーブル・アーキテクチュアル・アワード大賞(イタリア)を受賞。
2006年には、広島文化賞を受賞されています。
渡伊以降トスカーナ州カッラーラに工房を持ち活躍され、国内はもとよりイタリア、ドイツ、スペインに設置されたモニュメントも40点を超え、各地で高い評価を得ています。
家族愛と湧き出る力をテーマにしている氏の作品は、初代住職が母の慈愛に報いんと耕三寺を建立したことと相通じるところがあります。
美しい瀬戸内海の眺望と造形美を、体感をもってお楽しみください。

千佛洞地獄峡の出口から未来心の丘へ向かいます。

若干、曇りがちな天気でしたが、その迫力は素晴らしものでした。天気が良ければ、大理石の白さが太陽に照らされて、写真映え間違いない場所です。


























カフェ クオーレ
未来心の丘内に併設されている、大理石で造られたお洒落なカフェです。
ドリンクやデザートを入口で注文して、出てきた商品を自分で取りに行くシステムとなっています。
イタリアのカフェを彷彿とさせる店内では、格別の味わいの本格コーヒー、その雰囲気と相まって、特別な時間を過ごすことが出来ます。
また、瀬戸田レモンを使ったドリンクやケーキなど、この地域ならではのメニューも提供されています。












おまけ(原爆ドーム)

広島駅まで行ったので、原爆ドームに寄りました。
広島駅周辺には、おすすめの広島お好み焼きが沢山あります。
是非、訪れた際には、食べてみてください。
世界遺産 原爆ドーム
昭和20年8月6日 史上はじめての原子爆弾によって破壊された旧広島県産業奨励館の残骸である。
爆弾はこの建物のほぼ直線上約600メートルの空中で爆発したその1個の爆弾によって20万をこえる人々の生命が失われ半径約2キロメートルに及ぶ市街地が廃墟と化した。
この悲劇な事実を後世に伝え人類の戒めとするため国の内外の平和を願う多数の人々の寄金によって補強工事を施し、これを永久に保存する。
昭和42年8月6日 広島市より
原爆ドームのもとの建物は、チェコ人の建築家ヤン・レツルの設計により1915年(大正4年)4月に広島県物産陳列館として完工し、特徴ある緑色のドームによって市民に親しまれていました。
館は、県物産の展示・即売、商工業に関する調査・相談などを業務としていましたが、美術展や博覧会なで文化事業にも利用されました。
その後、広島県立商品陳列所、広島県産業奨励館と改称し、業務の拡大が図られていきましたが、戦争の長期化・激化とともに業務が縮小され、内務省中国四国土木出張所、広島県地方木材株式会社など官公庁等のッ事業所として使用されました。
1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分、米軍のB29爆撃機が、人類史上最初の原子力爆弾を投下しました。
原爆は、広島県産業奨励館の南東160メートル地点の上空約600メートルでさく裂し、建物は大破・全焼、館内にいた全員が即死しました。
しかし、爆風が上方からほとんど垂直に働いたため、建物の壁の一部は倒壊を免れ、最上部に残った鉄骨により円蓋をもつ建物であったことがわかる程度の残骸となりました。
戦後、広島県産業奨励館の残骸は、最上部の円蓋鉄骨の形から、いつしが市民から、原爆ドームと呼ばれるようになりました。
原爆ドームについては、当初、記念物として残すという考え方と、危険建造物であり被爆の悲惨な思い出につながるとういうことで取り壊すという二つの考え方がありました。
しかし、市街地が復興し、被爆建物が姿を消していく中で、保存を求める声は次第に高まりを見せ、1966年(昭和41年)、広島市議会が原爆ドームの保存を決議しました。
これを踏まえて、保存工事のための募金運動が行われ、国の内外の平和を願う多くの人々の寄金により1967年(昭和42年)、第1回目の保存工事が行われました。
その後も、数回の保存工事が行われ、原爆ドームは被爆当時の姿を今に伝えています。
1996年(平成8年)12月、原爆ドームは、人類史上初めて使用された核兵器の惨禍を伝える歴史の証人として、また、核兵器の廃絶と世界の恒久平和の大切さを訴え続ける人類共通の平和記念碑として、世界遺産に登録されました。
また、原爆ドーム周辺は文化財保護法による国の史跡に指定されるとともに、平和記念公園周辺を含む区域に緩衝地帯(バッファーゾーン)が設定され、原爆ドームの保護が図られています。



まとめ
白い大理石で造られた不思議な世界へ行ってみてはどうでしょう?
母を大事に思うことから、耕三寺が造られていることや、地獄の世界を表現したり、極楽のような世界を表現している素晴らしいお寺ではないでしょうか。
広島観光のおすすめは下記を参照してください。