水を司る「高龗神」を祀る神社で有名なのが、京都の貴船神社、奈良の丹生川上神社です。
貴船神社と丹生川上神社(上社・中社・下社)を南北に結ぶと平城京・平安京があります。
北を守る貴船神社、南を守る丹生川上神社が浮かび上がってきます。
貴船神社については下記を参照してください。
そんな、南側に位置する丹生川上神社には上社・中社・下社があり、時代によりそれぞれが、日本最古の水神神社としてふさわしいと三社認められて来ました。
三社めぐりをすることで、その場所での川・山・滝など自然にふれて、水神・龍神のパワーを頂けると良いですね。
今回、丹生川上神社三社めぐりについて紹介します。
また、芸術・芸能の神様で有名な天河大辯財天社まで足を運びました。
吉野手すき和紙の御朱印紙
位置的には上社・中社がわりと近くにあるため、二社を合わせてまわり、下社へ向かうのが良いのではないでしょうか?
私の場合は丹生川上神社(中社)→丹生川上神社(上社)→丹生川上神社(下社)→天河大辯財天社の順でめぐりました。
※中社は正式名称「丹生川上神社」で登録されています。上社は「丹生川上神社上社」、下社は「丹生川上神社下社」となっています。
三社の御霊を受け水神力の御利益を戴いて下さい。
水神力御霊守
丹生川上三社では、水の神様の御力を戴き諸願成就を記念しました御霊守を授与しております。
水の霊 上社「水」翡翠
神の霊 中社「神」紅水晶
力の霊 下社「力」黒瑪瑙
初穂料 三千円(最初の神社にて水神力袋を呈上)
それでは、丹生川上神社(中社)から順番に見ていきましょう。
丹生川上神社 中社
水神宗社と称し、第40代天武天皇白鳳4年(675)の創祀にて、御祭神は罔象女神で、水利水運・山林耕作農業に関する水一切を司さどる水神である。
又、雨師の神として、旱天続きの降雨には黒馬を、長雨の止雨には白馬を捧げ、朝廷より96回の奉幣を数え、絵馬の発祥の神社でもあります。
古来より皇室を始め全国津々浦々の水を生業とする人々から篤い信仰を寄せられております。
龍玉
龍神の御力にて穢れを取り去り、運気を開きます。
心の願いを玉に込め、穴に息を三度吹き込み東の滝(龍神の滝)に投げ入れてください。
丹生のなでふくろう
ふくろうは「不苦労」「福来朗」「幸福ろう」と書き物事を察知し、先を見通し知恵豊かな、しあわせをもたらす霊鳥として親しまれております。
この“なでふくろう”の頭、体、足などをなでて頂き御徳をお受け下さい。
那智黒石にて謹製の「丹生のなでふくろう」又「ふくろう守り」も社務所にてお授けしております。
叶の大杉(樹齢一千年余)
両手を大杉に当て願い事を唱えて御神威をお受け下さい。
丹生の御神水(清めのお水・丹生の真名井)
御本殿裏手の乎牟漏岳を分源として罔象女神(水の神様)のみづみづしい秘めた力と恩恵を受けた御神水が御本殿の地下を脈々と通り、御井戸に滾々と湧き出ております。水の神様のみづみづしい清めのお水・生命のお水を戴いて活力ある日々をお過ごしください。
小牟漏岳
丹生川上神社の背後の山
古事記によると、雄略天皇4年(460)、天皇が小牟漏岳で狩りをされ、御椀を喰った。
その瞬間、蜻蛉が飛んできて、その虻をくわえて飛び去った。
天皇は蜻蛉をほめて御歌お詠み、この地を蜻蛉野と名付けられた。
み吉野の 袁牟漏が嶽に 猪鹿伏すと 誰れそ 大前に奏す やすみしし 我が大君の 猪鹿待つと 呉床に坐し 白袴の衣手著そなふ 手腓に 虻かきつき その虻を 蜻蛉早咋ひ かくの如 名に負はむと そらみつ 倭の國を 蜻蛉島とふ
日本書紀にもこのことが記されています。
小牟漏岳に続く山上に、神武天皇が上小野の榛原、下小野の榛原と名づけて皇祖天神を祀られた「鳥見霊時跡」があります。
東吉野村より
丹生龍王大神社
高龗神(山の頂の龍神)
闇龗神(谷すじの龍神)
二神を合祀せて丹生龍王大神としてお祀りしています。
願の大杉(樹齢一千年余)
両手を大杉に当て願い事を唱えて御神威をお受け下さい。
夫婦杉
雄杉(イザナギ命)
雌杉(イザナミ命)
願い方
夫婦杉を①、②の順に八の字に回ります。
両手を広げて二つの気をお受け下さい。
丹生川上神社(旧官幣大社)
御祭神
罔象女神と言い、日本最古の水神で水神総本社である。
祭られた初めは何時代かわからぬ位古く、恐らく神武天皇の頃はこの辺りに神籬式の神として祭られていた。
最初武運守護の神として崇敬されたが天武天皇の時初めて社殿を建て神社としての形が出来上がった。
この以後は天下に良き雨を降らせ、また大雨を止める水神の神徳が上下の人々から信仰せられ萬葉から奈良時代にかけて歴代天皇の行幸五十回近くあって、その泊り給うところが吉野離宮であった。
平安朝になってから行幸が絶え吉野離宮も荒廃したので現在の地に神社を移して壮大なる建築に代ったが戦国の狂乱に及び・・・灰燼に帰し僅かに御神体その他の一部が残すののみで往年の面影は失われた。
近世になって農業耕作に慈雨の恵の神として一般の信仰が篤く各地から水神講を組織して参拝した。
現在水を最も必要とする電源開発、電力会社、及び各都市の水道方面から篤く信仰されている。
木霊杉
胎内に入り木霊の氣を体感し力(パワー)をお受け下さい。
神武聖蹟
神武天皇の丹生川上での親祭
昭和15年(1940)2月7日、文部省による神武聖蹟調査の第1回目の決定があり、「丹生川上の地」は小川村(現東吉野村)丹生川上神社の付近であると発表された。
日本書紀によると、戌午の年9月、神武天皇は、大和平定のため、夢にあらわれた天神の教えのとおり、天香具山の社の中の土を取って平瓮(粘土製の皿の一種)と巌瓮(御神酒を入れる瓮)をつくり、丹生の川上にのぼって天神地祇を祀られた。
神意を占って
「巌瓮を丹生川に沈めよう。もし魚が大小となく全部酔ってながれるのが真木の葉の浮き流れるようであれば自分はきっとこの国を平定するだろう。」
と言われて巌瓮を丹生川に沈めた。
しばらくすると魚はみな浮き上がって口をパクパク開いた。
椎根津彦がそのことを報告すると、天皇は大いにお喜びになられ丹生の川上の五百箇所の榊を根こぎにして諸々の神をお祀りされた。
このときから祭儀のときに御神酒瓶が置かれるようになった。
丹生川は今の高見川で、高見・四郷・日裏の三川が合流したところの深淵は、神武天皇が夢にあらわれた天神の教えによって巌瓮を沈めたところだと伝えられ、「夢淵」と呼ばれています。
東吉野村より
心の願いを龍玉に込め、穴に息を三度吹き込み東の滝(龍神の滝)に投げ入れてください。
夢淵と山口誓子
夢淵の付近一帯は風光明媚な地で古来より多くの歌に詠まれている。
神武天皇が東征と全国平定を完遂して、畝傍山の麓で橿原宮に即位できたのは、全く丹生川上の紺碧の深い淵に巌瓮を沈めて、天神地祇を崇祭せよという天神の夢の訓の賜であるとして感謝の誠を捧げられたことからこの地名が生まれた。
近くの日裏川の「東の滝」にも古来よりの伝承と丹生川上神社との歴史の中に数多くのロマンを秘めている。
平成元年初夏 山口誓子がこの地を訪ね、当地に感嘆して御作を吟じられ同年十一月三日句碑の除幕が行われた。
瀧の水
真ぐ透き通る
神の淵
丹生川上神社 上社
龍神総本宮 丹生川上神社上社
主祭神 高龗大神(龍神・雨師の神)
相殿神 大山衹神 大雷神
御由緒
「高龗大神」は神代において伊弉諾尊が火の神「迦具土神」を切り給うた時に生まれせる神様で天空・山の峰の龍神のことです。
日本書紀神武天皇即位前紀戌午申子の条に「巌瓮を造作りて丹生の川上にのぼりて用て天神地祇を祭りたまう」と記されており上古より祭祀を行う聖域であった事が知られます。
天武天皇の御代白鳳四年(675)「人の声の聞こえざる深山吉野の丹生川上に我が宮柱を立てて敬き祀らば天下のため甘雨を降らし長き雨を止めむ」の神宣により御社殿を建立奉祀されました。
それ以降祈雨・止雨の神として奈良時代には淳仁天皇天平宝字七年(763)の奉幣祈雨 光仁天皇宝亀六年(775)の奉幣祈晴をはじめ室町時代に至るまで数十回の奉幣祈願がなされ朝廷・国家また人々より篤い崇敬を受けてまいりました。
「この里は丹生の川上ほど近し祈らば晴れよ五月雨の空」
後醍醐天皇が吉野の行宮に在られた折、当社に寄せて詠まれた有名な御製です。
平安時代の法令集「延喜式」(927)によると朝廷の奉幣をいただき早魃の際に祈雨には黒毛の馬を長雨の際の止雨には白毛の馬を奉るのを例としました(なおこの生きた馬の代わりに絵馬を奉納するという風習が後に普及したといわます)また「延喜式」には名神大社という特に霊験あらたかな神社として月次・新嘗祭に際し官幣に預り神階は寛平九年(897)従二位に叙せられ雨師社雨師明神・丹生大明神とも称されました。そして平安中期以降は朝廷における最高の社格となる「二十二社」の一つに数えられました。
丹生川上神社 上社
高龗大神は水と雨を掌られる龍神様です。その昔、旱魃の際の祈雨には黒毛の馬を長雨の際の止雨には白毛の馬が奉納された。
これが絵馬の発祥となったといわれています。
生きとし生けるもの、すべて水無くしては生命を保持することはできません。
「農耕」を以って国家の基礎としてきたわが国と、「林業」を育んできた吉野地方においては、雨を掌られる大神様に対する崇敬の念がきわめて篤く、古来より今日に至るまで変わることなく続いています。
平安時代祭場跡(復元)
平成十一年(1999)に発掘調査によって本殿基檀直下で検出された敷石遺構。緑色岩類・砂岩・チャートなどの自然石を長方形に敷き並べたもので、長辺約五・四メートル、短辺約三・0メートルの規模を有する。
本殿基檀は、十二世紀末から十三世紀初頭頃に造営され、その後現在地へ遷座するまでの約八百年間にわたって造り替えを繰り返し、その都度規模を拡張してきたことが、発掘調査によって明らかになった。
最初に造営された本殿基檀は、敷石遺構の平面形態を踏襲し、その上に盛土造成して造営されていることから、この敷石遺構は、本殿建立以前の祭場と考えられる。
なお、敷石遺構周辺の聖地土からは平成時代の土師器皿が多数出土しており、これらの出土遺物から、この遺構は遅くとも十一世紀後半から十二世紀初頭頃までに構築されたものと考えられる。
奈良県橿原考古学研究所より
元宮遥拝所(参入可)
「おおたき龍神湖」に元宮の跡地が沈む
「巫女のお告げ」
湖面より、額に星印を付けた巫女が舞ひ上がり、古老に病を伝へた
御末社
山之神社 大山衹神
水神社 弥津波能売神
恵比須社 大国主神 事代主神
愛宕社 火武須毘神
龍のモニュメント
矢印の所から撮影したものです。
丹生川上神社 下社
丹生川上神社 下社
日本最古の水神を祀る神社。
雨乞いには黒馬を、晴れるを祈る時は、白馬をこの社に献上したという。
絵馬発祥の神社としても有名で、森を育むために必要な水を祀った神社として崇敬された。
由緒
御祭神 闇龗神
いざなぎ、いざなみ 二尊の御子神
天武天皇白鳳四年(676)「人声の聞えざる深山に宮柱を立て祭祀せば、天下のために甘雨を降らし、霖雨を止めむ」との御神誨に因り創建された古社である。
御例祭 六月一日
御神格 延喜式の名神大社二十二社の一社 元官幣大社 明治四年列格
御鎮座地 丹生川の川上 丹生山 神武天皇御東征の途御親祭遊ばされた地である。
朝廷の尊崇 天平宝字七年(763)幣帛の外、特に黒毛の馬を奉献される。
その後、祈雨には黒馬、祈晴には白馬を献ずることが恒例とされた。
孝明天皇安政元年(1854)に「外患惧服国家清平」の祈祷を仰付けられた。
御神徳
大気を浄化し、万物生成化育の根源たる水を主宰遊ばされ、地球上のありとあらゆる物象の上に、はかり知れない恩恵えお垂れ給い、守護あらせられるいのちの神様である。
欅に願いをこめて
昔から大木に神宿ると伝えられていますが、正にこの欅、神宿るに相応しい大木、樹齢五百年(推定)株回り、四・五メートル、樹高約三十メートル余、大昔より涸(か)れた事のない御神水の恩恵を受け四方に伸びた枝に繁る若葉は、神の恵みそのままに朝日に映えて神々しく輝き、あきの紅葉はさながら錦絵のようで、見る人のこころを捕らえて離さない、今、心静かに大木の幹に手を触れて生気を頂きながら、何か一つだけ願いをかけてみよう。
思わぬご利益にさずかることができるかも。
蛙石
牛石の傍らの石、この石が、なぜ牛石の傍らに建っているのか現存の氏子中で誰も知らず不意義に思っていた。
だが、最近その理由がわかった。
この石をじっと眺めていると蛙が立ち上がった姿に見える。
そこでこの石を蛙石と名付けることにした。
牛はじっくりと物事を見極め粘り強く歩むことから、人生も商売も牛歩のようにあれと言われている。
一方、蛙は瞬時に物を捕らえる瞬発力を持っている、すなわち、静と動の対照的な性格を持つ石を並べて置いたのは、人生にも物事を決めるとき、熟慮すべきか、即決すべきか、判断に迷うときがある。
そんなとき、この二つの石に触れながら心静かに考えてみよう。
そのとき二つの石の精がきっと良い決断を与えてくれるでしょう。
牛の粘り強さと蛙の瞬発力を兼ね備えた人生であるために何事も原点に帰る(蛙)気持ちこそが大切だとこの石が教えてくれている。
牛石に思う
この石は形が牛の寝ているように見えるところから、誰となく牛石と呼ぶよになった。
この石は大正天皇御大典の奉祝を記念して丹生区より奉納されたものです。
当時これと言った道具もない時代に、これだけの石を人力だけで、そり台に乗せて川より引き上げ、若者の心意気と辛抱強さの象徴として此処まで持ち込んで下さった苦労に頭の下がる思いがします。
それから約一世紀に亘り辛抱強くここに座ったままの石である。
だから世の移り変わりの色々を知っている。
ロマンに満ちた石である。
今改めて当時の人々の労苦に感謝しながら、いつの世にあっても辛抱の大切さを教えてくれているこの石を愛しく思い真心を込めて優しく三回撫でてあげましょう。
思いがけない幸運に恵まれるかも。
天河大辯財天社
天河大辯財天社
天河神社の奥宮が鎮座する霊峰弥山は、大峯山系(世界文化遺産)の中央に君臨し、荘厳幽玄な山容を持ち水の精、気の精、土の精等神々の鎮まる神奈備信仰の大元とされ宗教的霊山の第一に挙げられています。
修験道開祖役行者は、弥山に於いて鎮護国家を祈念した時、天降る天女の神を辯財天に戦勝を祈願し勝利を収め、壺中の琵琶山に天之安河之宮として社殿を造営、その後、僧空海弘法大師等、貴顕高僧の参籠とする山内第一霊場となります。
又、能楽との関係も深く、世阿弥嫡男観世十朗元雅寄進の能面「阿古父尉」等能楽史上貴重な重要文化財が多く所蔵され、芸術芸能音楽の神としても篤く信仰されています。
五社殿の御祭神
石段手前より
龍神大神 辯財天の化身なる龍神の神
大将軍大神 八ッの杜の内森本神社御祭神
大日孁貴神 天照大御神の御別名
天神大神 菅原道真公
大地主大神 琵琶山の地主守神
天石の云われ
大峯弥山を源流とする清流は天の川にそそがれ坪内(壺中天)で蛇行し、その形は龍をしのばせる。
鎮守の社、琵琶山の磐座に辯財天が鎮まり、古より多くの歴史を有す。
この地は「四石三水八ツの杜」と言われ、
四つの天から降った石
三つの湧き出る清水
八つの杜
に囲まれし処とされ、神域をあらわす。
その内三つの天石を境内に祀る。
(一つは階段右・二つ五社殿前・三つ裏参道下行者堂左)
神宝「五十鈴」御頒布のお知らせ
神宝「五十鈴」とは
五十鈴は正式には神代鈴と申し、数千年前から当社のみに残されている青銅製でつくられたものです。
歴史的には、天照大御神が天の岩戸にお隠れになった時に、天之宇受売命がこの五十鈴のつけられた矛をその手に持たれ、大地を踏みしめて聖なる舞いを舞い、大神を外にお連れし、再び生きるに値する光の世に戻ったとされ、この鈴の音霊の働きは、非常に大切なものであることがうかがえます。
只今当社では、「生魂」「足魂」「玉留魂」の三魂三位一体の紺本理念を発し、古代、現代、未来へと信仰の根元をなし、人間の全人格を反映し、人間生活を豊かに、充実に満ちたものとし、音霊の響きにより大宇宙の波動に共振でき清浄心が養うことができる。
「青銅製と同じく原寸大(十センチ大 純銀製、純金張り)」また「原寸大(十センチ大 純銀製)(三センチ大 十八金製)」の五十鈴を特別頒布いたしております。
神聖なる音霊のエネルギーをもつ五十鈴をご家庭の神宝としてお納めくださいますようおすすめします。
まとめ
今回、丹生川上神社三社めぐりについて紹介しました。
三社めぐりをすることで、その場所での川・山・滝など自然にふれて、水神・龍神のパワーを頂けると良いですね。
龍にまつわる神社やパワースポットに興味のある方は下記を参考にしてください。