神社・仏閣が一体化した神秘の島「竹生島」(ちくぶじま)は滋賀県琵琶湖の北部に位置しています。
「竹生島」は御来光の道で知られているレイラインの直線上に並ぶパワースポットの一つです。
レイラインについては下記を参考にしてください。
「竹生島」について
竹生島には「宝厳寺」(ほうごんじ)「都久夫須麻神社」(つくぶすまじんじゃ)が鎮座しています。
竹生島は琵琶湖に浮かぶ島であるため、フェリーで渡る必要があります。
フェリーは事前に予約しておくことをお勧めします。
土・日は乗船客が多く、当日券が無い場合があります。
フェリーの発着港は長浜港・今津港・彦根港となります。
我が家では長浜港から乗船することにしました。
長浜港フェリー乗り場には無料駐車場があります。
30台程度駐車可能です。
長浜港発着フェリー料金(往復):3,200円(大人)
所要時間片道30分程度
竹生島に到着
フェリーを降りたら、売店を通り抜け右側にある自動券売所で入島チケットを購入。
入島料:600円(大人)
その先にある「祈りの階段」といわれる165段の階段を登ります。
「宝厳寺」について
宝厳寺は日本三大弁財天の一つに数えられるほど、強力なパワースポットとなっています。
(日本三大弁財天:厳島神社・江ノ島神社・宝厳寺)
西国三十三所の第30番札所であり、多くの参拝者が訪れます。
秀吉が建てた大坂城極楽橋の一部で現存唯一の大坂城遺構として注目されている国宝・宝厳寺唐門や、桃山文化の代表的な国宝建築物で、豊国廊の建物を神殿として寄進された都久夫須麻神社本殿、重要文化財の宝厳寺舟廊下などの見どころがあります。
宝厳寺弁才天堂について(昭和17年建築)
竹生島宝厳寺の本尊は「弁才天」。寺伝によると神亀元年(724)、聖武天皇が天照皇大神の神託により僧行基に勅命し弁才天を祀ったのが始まりと言います。本尊の弁財天像は、江戸時代まで島の東側の弁財天社(現、都久夫須麻神社本殿)に安置されていました。しかし、明治時代の神仏分離によって弁財天社は都久夫須麻神社本殿と定められたため、明治4年(1871)、やむなく弁財天像は塔頭妙覚院(たっちゅうみょうかくいん)の仮堂に仮安置されました。以来66年間、弁才天堂の造営は未着手のまま時が流れましたが、昭和12年(1937)6月、ようやく起工式を執り行うまでに至りました。しかし、翌月には盧溝橋事件が発生。日中戦争が勃発し半ば事業も中止状態になってしまいます。この事態を憂慮した東京在住の事業家滝富太郎は、自ら再建局長の任に着き、広く篤志を募る一方、巨万の私財を投じ遂に昭和17年(1942)10月、太平洋戦争中にも関わらず完成させたのが現在の弁才天堂です。なお、設計・監督は文部省の乾兼松。堂内の壁には、法隆寺金堂壁画模写事業の主任画家を務めた荒井寛方筆の飛天が描かれています。
宝厳寺より
宝厳寺の横、後ろ側に位置する三龍堂に導かれて行きました。
鳥居をくぐりお堂の前に来た時、金色に輝くトカゲと虹色に輝くトカゲを見ました。
三龍堂をお守りしているのかなと?
何かご利益があるといいですね。
お釈迦様の遺骨を納めた仏舎利塔をかたどった三重塔です。
1484年(文明16年)前後に建てられたものの江戸時代初期に焼失した三重塔は、「阿部権守」の絵図を元にして、2000年に約350年ぶりに再建されました。古来の工法や装飾が忠実に再現されています。
モチの木
この木は1602年(慶長7年)、豊臣秀頼の命を受け、普請奉行の片桐且元が観音堂、唐門、渡廊下を移築したときに、記念にお手植えされたものです。賤ケ岳合戦で七本槍の一人として名をあげ、秀吉のもとで検地・作業奉行として活躍されました。その移築時の時代背景としまして、秀吉公亡き後に家康公により豊臣色を薄める政策がとられ、その一連の流れのなかで、豊国廊の縮小を余儀なくされました秀頼公は、その遺構を残すべく片桐且元に移築の命を与えたのであります。そのご縁で当寺にお手植えの木が残されております。 竹生島 宝厳寺より
宝厳寺唐門
慶長7・8年(1602・3)豊臣秀吉の子秀頼によって、京都豊国廟(秀吉の亡骸を葬った廟所)の建造物を竹生島に移築するかたちで、当時荒廃していた竹生島の伽藍整備が行われました。この時、豊国廟の極楽門が移築され現在の宝厳寺唐門になったといいます。豪華絢爛と評される桃山様式の建造物の特徴がよく表れており、破風板内部の正面中央には大型の蟇股が置かれ、その内部は牡丹の彫刻で埋められています。蟇股の外部や脇羽目なども多彩な彫刻で埋め尽くされ、極彩色で飾られています。現在は、長年の雨風によりその華やかな色もずいぶん褪せていますが、建立当初は、黒塗りの躯体と、赤・黄・緑などの極彩色とが鮮やかなコントラストで映えていたことでしょう。さて、この唐門は京都から移築されてきたものですが、実は、その前に一度移築を経験しています。このことが最近のある大発見によってよりクローズアップされてきました。2006年、オーストリアのエッゲンベルグ城に飾られていた壁画が、豊臣時代の大坂を描いた屏風絵であったということが判明したのです。そこには、大坂城の本丸と二の丸に間にかかる屋根や望楼を持つ豪華な橋・極楽橋が描かれていたのです。この橋は、慶長元年(1596)に建造され、慶長5年(1600)に京都の豊国廊へ移築され極楽門として設置されたことが分かっています。さらに、慶長7年(1602)に竹生島に移築され現在に残っているというわけです。江戸時代の初期に徳川家によって破却された豊臣時代の大坂城の一部が唯一、竹生島に現存しているのです。秀吉が、初めて城持ちの大名となった地である長浜に、栄華を極めた秀吉の象徴とも言える大坂城の遺構が唯一残っていることは、深い因縁を感じさせます。 竹生島 宝厳寺より
唐門をくぐり、「賓頭盧尊者」(びんづるそんじゃ)は触ったところが良くなると言われている神様です。
その先に観音堂があります。
観音堂でお参りを済ませると、舟廊下を通り都久夫須麻神社へ行きます。
「都久夫須麻神社」について
四柱の神様をお祀りしている都久夫須麻神社(つくぶすまじんじゃ)は竹生島神社とも呼ばれています。
市杵島比売命(イチキシマヒメ)、宇賀福神(ウガフクジン)、浅井比売命(アサイヒメノミコト)、龍神(リュウジン)
都久夫須麻神社(竹生島神社)本殿
「江島大神」・「厳島大神」
「白巳大神」
「天忍穂耳命」・「大巳貴命」
「招福弁財天」
「かわらけ投げ」について
かわらけ投げとは、厄除けなどの願いをかけて、高い場所から円盤状の土器の皿を投げるという古くから伝わる願掛けの一種です。
戦国時代、武将が必勝を祈願して土器の酒杯(盃)を地面に投げつけて出陣したことが起源とされています。
江戸時代にはかわらけ投げが庶民の娯楽となり、祭礼や祝事の際に行われるようになりました。発祥地は京都市の神護寺と言われています。
かわらけに願い事をかき、湖面に突き出た宮崎鳥居へと投げ、鳥居をくぐれば、願い事が成就するというものです。
1枚ずつ投げるか、2枚重ねて投げるかどちらが良いのでしょう?
気合を入れて、1枚ずつ分けて投げました。
残念ながら、まったく、鳥居まで届きませんでした。
上手に投げて、鳥居をくぐらせることができる人を何人も見ました。
「黒龍堂」について
黒龍は、八大龍王の一尊。龍王は、大海に住み雨を降らす神である。また、釈尊の誕生時には歓喜の清浄水(清めの雨)を降らせたと伝えられ、修行者の修道無難、道念増進の守護神でもある。隣に立つ大木は、黒龍は、湖より昇って来ると伝えられる神木である。黒龍堂は、昭和四十五年大阪・岡橋氏により建立された。近年、堂の傷みが進んでいたが、平成七年解脱会有志の方々により修繕、合わせて鳥居が再建された。 平成七年三月吉日 竹生島 宝厳寺より
「売店・甘味処」について
ここや
「アイスもなか(抹茶)」、「近江牛肉まん」を購入しました。
野坂みやげ店
「とうふミルクのソフトクリーム」を購入しました。
いよいよ竹生島を離れます。
フェリーのチケットは往復で購入します。
帰りの時間も決まっています。(島内に90分)
第1便 長浜港8:50発の場合は竹生島10:55発となります。
第1便で竹生島に入ったので、初めのうちはガラガラで快適でした。
しかし、竹生島を出るころには沢山の人であふれていました。
「ランチ」について
スペイン料理 エルオチョ(ELOCHO)
駐車場は3台止めれますが、大型の1BOXは駐車困難です。
予約無しでの入店は困難なため、事前予約をお勧めします。
オーナーシェフが一人で料理をしているため対応できないのでしょう。
娘とおばあちゃんが手伝っていました。
11:30に来店した時、5名の予約があり、予約客の料理準備で12:30以降にしてほしいと言われました。
他の店にするか悩んだ末に、どうしてもスペイン料理が食べたくて再度行きました。
12:15でしたが、入店O.K.が出ました。
料理を待っている間に次々とお客さんが来ますが、予約の無い方は入店できませんでした。
実際、料理が食べれたのは13時位でした。
ランチプレートは2種類あります。
「グリルチキンのプレート」と「春キャベツとベーコンのパスタプレート」の2種類を注文。
グリルチキンは香ばしく味が染みていて、美味しくいただきました。
サラダ、キッシュ、パン、スープがセットになっています。
パスタはニンニクが効いてコクがあります。
単品で「イベリコ豚の生ハム」と「エビのアヒージョ」を注文しました。
とにかく、どれも美味しかったので、待っただけの価値がありました。
しかもランチプレートは1,000円なので、値段にも大満足でした。
実は、11:30にお店に行ったとき、予約があるので後から来て下いと言われて、違うお店をいろいろ調べました。
すぐ近くには、イタリア料理のパスタとピザのおしゃれなお店もあります。
黒壁スクエアの方にはハンバーグのお店とオムライスのお店も検討していました。
しかし、どうしてもスペイン料理が気になって、待つことにしました。
結果、私たちににとっては最高のランチとなりました。
「黒壁スクエア」について
日本最大の湖である琵琶湖。その湖岸に開けた町「長浜」は、古くから渡来の文化や産業を取り入れる進取の気鋭に満ち、戦国時代には国友の鉄砲、浜縮緬、ビロード等が始まりました。今から約四百年前に豊臣秀吉公がこの地で初めて大名となり、出世城と呼ばれる長浜城を築きました。長浜城下には楽市楽座をしき「町屋敷年貢免除」の朱印状を授け、発展に大きく寄与しました。明治時代には全国で三番目に鉄道が敷かれ、県下初の小学校、銀行等が町民の力によって建てられるなど、文明開化の先取りをしていきました。その気風は現代まで受け継がれ、ガラス文化を取り入れる大きな布石となりました。「黒壁」という名称は、1900年に建てられた「旧第百三十国立銀行長浜支店(通称黒壁銀行)」が黒漆喰だったところに由来します。郊外型大型店の進出等により商店街が寂れていく中、行政と民間有志が協力して街の再生を目的とした「株式会社黒壁」を1989年に設立。古い町並みと、地元商品と競合しないガラス文化を融合させ、現在は年間200万人近い来客者で賑わう観光スポットになりました。 株式会社黒壁より
ランチ後、黒壁スクエアへ向かいます。
駐車場は長浜駅付近の駐車場を見つけました。
土日は駐車場が空いていない場所が多く、駐車困難ですが、根気よく待てば空きます。
街をブラブラ歩いていると、店先に散策マップが置いてあります。
今回の目当てである、黒いソフトクリームがある「96 CAFE」を目指します。
「赤」はいちご味です。
口の周り、舌は真っ赤になります。
服にたれると大変です。注意して食べてください。
「黒」はチョコレート味です。
赤に比べると強烈な色ではありません。
しかし、近くの子供が真っ黒な口をして食べていました。
チョコ味とシャキシャキ感がありとても美味しかったです。
炭のチップが入っているとか?
「余呉湖」について
「余呉湖」は日本のウユニ塩湖と言われる場所の一つである。
期待して行ったのですが、曇りの天気で風が強く、想像と違っていました。
残念ながら、今回は思うような写真は撮れませんでした。
冬の早朝が良いみたいですね。
こんな風景を期待していたのですが・・・・・
余呉の里に伝わる羽衣伝説、菅原道真にまつわるこの伝説は、余呉湖の静かな佇まいと相まって、単なる伝説と思わせないものが漂う。また、賤ケ岳七本槍の故事は有名だが、余呉はその決戦の主戦場だった史実。琵琶湖の陰に隠れてひっそりと佇んでいる余呉は伝説と歴史に彩られた心のふるさとである。里人たちの暮らしも、この静かな環境の中で素朴に平穏に営まれて来た。 余呉湖石碑より
まとめ
レイライン上に位置するパワースポットの内、今回訪れたのは滋賀県琵琶湖に浮かぶ竹生島に行きました。
第一回目にふさわしく、不思議なパワーのある島でした。
また、ランチで食べたスペイン料理、黒壁スクエアで食べた「赤」「黒」ソフトクリーム、どれも思い出深いものとなりました。
次回、第二回目の金華山を楽しみにしています。
レイラインを巡る旅は始まったばかりです。